侍を語る記

侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その15

こうして、駿河今川家による家臣粛清を数例紹介してきた。その手口だけを見れば、今川義元・氏真父子の卑劣さ、陰湿さが殊更際立つことだろう。しかし、父子を比較すると大きく違う点がある。 義元はこれらの粛清をおこなうことで着実に自家勢力を伸ばし、ま…

今川粛清録 その14

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 中野家歴代当主墓さて、永禄11年(1568)、籠城戦に限界を感じていた連龍は、松居郷八郎と名乗る懇意の人物を仲介として氏真からの和睦に応じた。こうして、氏真の娘と婚約する運びとなった亡き前妻の子 辰之助を…

今川粛清録 その13

但し、飯尾家の系図には致実という別人が実在する。遠江浜松荘の代官だった飯尾長連には賢連と為清の2人の子があり、賢連の嫡孫が連龍にあたる。一方、為清の嫡孫には致実の名がある。決め手は長連・賢連・乗連・連龍が代々の通称 善四郎と通字の「連」を名…

今川粛清録 その12

遠州忿劇による粛清はさらに続く。 今川氏真の家臣で、遠江引間城(引馬城・曳馬城)の城代である飯尾豊前守連龍(善四郎・致実・乗龍・政純)にも不穏な動きが生じた。 「改正三河後風土記」によると、永禄6年(1563)、今川氏真が三河牛久保城(愛知県豊川…

今川粛清録 その11

さて、天文13年(1544)12月23日、井伊直平の次男(もしくは三男)の直満・その弟の直義らが今川義元への謀反の疑いで殺害されたことはすでに述べた。この時、直満の嫡男 亀之丞(当時9歳)にも追及の手が及ぶ可能性があった。井伊直平と龍泰寺の南渓瑞聞ら…

今川粛清録 その10

そこで、驚天動地の事件が発生する。 直平・直宗・直盛と嫡流が当主になることで成り立っていた井伊家であるが、直盛には男子ができなかった。そこで、直宗の弟直満の嫡子 亀之丞(のちの井伊直親)を直盛の養嗣子にする話が持ち上がった。ところが、直満と…

今川粛清録 その9

また、直平の娘は今川家に人質として差し出されたのちに義元の側室となったとも伝わり、さらに義元の養妹として今川一族の関口親永に嫁いだ。これも父直平が今川家との和睦に及んで人質として泣く泣く差し出したと見るのか、忠誠を誓うがゆえに自発的に差し…

今川粛清録 その8

ならば、力で勝る今川家がいっそのこと井伊家を根絶やしにすればいいのではないかと考えがちだが、そこは古くから土着して遠江北部一円に一族が分布している名族である。ちなみに井伊家には赤佐・奥山・中野・井手・井平・上野・貫名などの分家がある。奥山…

今川粛清録 その7

平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の第1話で、その後の井伊家の暗雲を予兆するかのように描かれたのが、井伊直満・直義兄弟の死である。 井伊家は藤原北家、もしくは南家の血筋と伝えられ、平安時代から遠江に土着した家柄である。南北朝時代の延元2…

今川粛清録 その6

実際、義元は沓掛城(愛知県豊明市)から西南方向に向かう途上で戦死することになる。ルートから察するに、鳴海城の南を通過して大高城を目指した可能性が高い一方、西北にあたる名古屋市南区方面を目指していないことも明白である。もし義元が上洛を急ぐな…

今川粛清録 その5

ところが、ここで事態が急転する。 翌年の永禄3年(1560)、これほど見事に今川家の橋頭堡を築いた功労者とも言うべき山口教継・教吉父子が今川義元から出頭を命じられ、駿府にて切腹に追い込まれたのである。先に紹介した戸部政直の例とあまりにも酷似する…

今川粛清録 その4

戸部政直と同地域で、しかも同様の疑いを受けて謎の死を遂げたのが、山口教継・教吉父子である。そもそも山口氏は元々周防大内氏の一族であり、尾張に土着したとされる。 左馬助教継は教房(尾張桜中村城主)の嫡男として誕生し、織田信秀に仕えた。今川義元…

今川粛清録 その3

裏を返せば、信長としては、このような器量人が尾張領内に屹立しているのは甚だ目障りである。父の代は仕えていたのに、自分の代になった途端に今川に奔ったことからしても、信長にとっては不愉快極まりない存在でもある。しかも知略のみならず、目の前を横…

今川粛清録 その2

まず粛清1つ目の例は戸部新左衛門政直である。富部神社(とべじんじゃ)にある戸部城趾碑によれば下記の通りである。 「戸部新左衛門諱政直今川義元之臣也 築城於尾州戸部為人精忠恩私為君家盡力 當時織田信長以不世出之略夙有樹旗於京畿之志而今川氏虎踞東…

今川粛清録 その1

平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を観てふと思ったことがある。 駿河今川家には家臣に謀反の嫌疑が生じると、本人に駿府への出頭を命じ、取り囲んで死に追いやるという独特の粛清方法が幾つかの事例として存在するのである。 これはあくまでも推測…

小牧長久手戦跡 青塚砦(愛知県犬山市)

愛知県犬山市青塚 尾張国の二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の祭神 大荒田命(おおあらたのみこと)の墓とされる古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である。 その墳丘の全長は123メートル、後円部の高さは12メートルの規模を誇り、愛知県では断夫山古墳…

私論「下剋上・下克上」その5

翻って言えば、幕末における討幕運動の核となった長州・土佐・肥前などの雄藩は、関ヶ原合戦直後こそ減封や転封を経験しているが、江戸時代を通じて転封することなく領地との繋がりを育んだ結果、幕末には藩を挙げての兵力動員を実現することになる。 本来、…

私論「下剋上・下克上」その4

せっかくだから、江戸幕府を開いた徳川家康を源頼朝・足利尊氏らと比較してみたい。 確かに、三河における松平氏はそこそこ有力な家柄とは言えるが、その出自も明らかではなく、所詮は土豪の集合体における盟主程度であった。さらに今川家を奉ずる勢力と織田…

私論「下剋上・下克上」その3

南北朝時代の政情不安の中で成立した室町幕府は、成立当初から守護大名の圧力を受け続けた。強烈なまでの独裁で君臨した3代将軍の足利義満がいる一方で、6代将軍の足利義教・管領にして「半将軍」の名を恣にした細川政元でさえ「下剋上・下克上」に斃れた。…

私論「下剋上・下克上」その2

⚫️平清盛や後醍醐天皇のように自身が政治をおこなうスタイルではなく、側近による政治機構を確立した。頼朝を始め鎌倉将軍家による独裁が思うように許されなかった反面、ブレーンによる権力掌握が活発化したと言える。有力御家人による合議制と言えば聞こえ…

私論「下剋上・下克上」その1

以下は「広辞苑」の記載内容である。 げ‐こく‐じょう【下剋上・下克上】 (「下、上に剋かつ」の意)下位の者が、上位の者の地位や権力をおかすこと。南北朝時代からの下層階級台頭の社会風潮をいい、室町中期から戦国時代にかけて特に激しくなった。太平記2…

中条氏館(埼玉県熊谷市)

埼玉県熊谷市上中条 龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館址長承元年(1132)、武蔵判官こと藤原常光が国司として中条の地に下向し、居住した館址である。 龍智山毘慮遮那寺常光院 藤原常光墓その孫と伝わる家長は源平合戦を経て鎌倉幕府の評定衆にも名を連ね、…

小牧長久手戦跡 草井の渡し(愛知県江南市)

愛知県江南市草井 承久3年(1221)、承久の乱に際して鎌倉幕府軍が尾張から美濃に侵攻した。この時、北条泰時率いる幕府軍は尾張国一宮こと真清田神社に布陣する。 6月6日、北条時氏・有時ら率いる幕府軍は尾張草井の渡しから木曽川対岸の美濃摩免渡の渡しへ…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その8

歴史愛好家の中には、「明治2年の段階で高杉が生きていれば脱隊騒動の展開は違っていたのでは」と考える向きもあるとは思うが、果たして西南戦争における西郷隆盛の如く諸隊に与したかどうかは疑問である。確かに高杉が奇兵隊を創ったとは言えるが、彼自身が…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その7

悲劇はなおも続く。苛烈な処分を以って脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允のやり方に異論を唱える前原一誠が9月2日、兵部大輔を辞職して明治政府を下野した。 そして、明治9年(1876)、旧脱隊兵や旧干城隊士を含む殉国軍を率いて彼が挙兵したのが萩の乱である。脱…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その6

まず、第二次長州征伐の際に占領した豊前企救郡(現在の福岡県北九州市・行橋市)と石見浜田藩領(現在の島根県浜田市)を朝廷の命に従い返還することとなった。すなわち、山口藩の領土が減少するからには、兵士のリストラを図らなければならない。 さらに、…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その5

これは高杉の最も怖れるところであった。というのは、奇兵隊結成から3ヶ月後の文久3年(1863)8月16日、奇兵隊と先鋒隊(のちの撰鋒隊)の間で小規模な武力衝突(教法寺事件)が発生したことで、高杉は監督責任を感じて切腹を申し出た。その結果、結成わずか…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その4

ここで問題だが、自身の生き様としては誇り高き武士に固執し、妻にも「士之女房」の教養を押し付けるほどの彼が、一方では武士以外の身分層に期待するような軍隊を結成したというのはどうにも矛盾しているのである。後年、怒りのあまり赤禰武人(奇兵隊三代…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その3

そこで、高杉は敗戦の中で際立った奮戦を見せた久坂玄瑞らの光明寺党(森俊斎こと、公家の中山忠光を擁立して下関の光明寺で結成した義勇軍)にヒントを得て、広く身分を問わない志願兵による軍隊の創設を藩に上申したのである。 「馬関のことは臣に任ぜよ。…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その2

この論法からすれば、上海に渡航してイギリスによる植民地政策の何たるかに触れた経験を持つ高杉が、時代の変革を模索しても肝心の長州藩が動くはずはない。かといって、独りでできることはせいぜい反対論者の暗殺程度であって大局を揺るがすには及ばない。…