侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

初めての会津 後編

そして、車座の話が終わり席に戻った時、私は大変なことに気づいた。隣りにいた義父は親戚の数人にお酌をした以外、ずっと独りで膳を囲んでいたのである。祖母や義母・私の家内が旧知の方々のお酌や場の仕切りに余念なく動き回り、私が無邪気に車座に溶け込…

初めての会津 前編

1年前のコロナ感染による長期の体調不良ゆえ、しばらく投稿できずにいる。それでも「何かを伝えなければ」と思い立ち、久しぶりの投稿を試みる。 平成13年(2001)の冬と記憶している。結婚してようやく1年を迎えた頃、家内の母方の祖父の十三回忌がおこなわ…

相応院を巡る人々 後編

一方、於亀の方の二番目の夫であった石川光元は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、翌年死去する。残された於亀との間の子 光忠は慶長13年(1608年)、徳川家康に召し出される。慶長15年(1610)には美濃や摂津など計1万300石の知行を賜り、慶長17年(…

相応院を巡る人々 前編

徳川家康の側室、のちの相応院は石清水八幡宮の祠官 志水宗清の娘である。名は於亀と伝わる。 天正19年(1591)、最初に嫁いだ竹腰正時との間に万丸(のちの竹腰正信)を設ける。正時という人物については別名もあり、はっきりとしない部分が多いが、斎藤道…

小牧長久手戦跡 蟹江城 後編(愛知県海部郡蟹江町)

後世、武将としての資質や実績を比較すると、家康が秀吉よりも優っていたと断じられる根拠として、小牧長久手の戦いがまず挙げられる。やむを得ない。家康と秀吉が直接対決したのは、小牧長久手の戦いしかないのだから、この一連の中で判断しがちであること…

小牧長久手戦跡 蟹江城 中編(愛知県海部郡蟹江町)

そして、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いは双方睨み合いの状態にあった。6月15日、滝川一益・九鬼嘉隆ら羽柴秀吉軍の水軍数十艘3,000の兵が伊勢白子(三重県鈴鹿市白子町)を発し、16日早朝には蟹江沖に姿を見せた。 迎え撃つ織田信雄軍の蟹江城主 佐久…

小牧長久手戦跡 蟹江城 前編(愛知県海部郡蟹江町)

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 中先代の乱ののち、南朝に属して足利氏に抵抗を続けていた北条時行が、正平8年・文和2年(1353)に処刑された。その後、次男 平太郎時満の子、平五郎時任が尾張西部に蟹江城を築城したとされる。永享年間(1429〜1440)のことと伝…

中先代の乱 その5

しかし、翌年に足利直義が急死すると、尊氏は南朝に背き鎌倉を地盤に東国平定を図る。南朝勢力として新田義興(新田義貞次男)・新田義宗(新田義貞三男)らと共闘する時行は、武蔵小手指原で足利基氏(足利尊氏四男)と激突した。思えば、新田義貞の鎌倉攻…

中先代の乱 その4

時行にとって不倶戴天の敵とはいえ、足利尊氏もこの頃、建武政権に不満を抱いていた一人と言えよう。だからこそ、彼は時行を駆逐した後の鎌倉に居座って、京の後醍醐天皇と一線を画す結果となる。再三の帰京命令を無視された後醍醐天皇は、建武2年(1335)11…

中先代の乱 その3

8月9日、足利軍の先鋒 安保光泰は遠江橋本(静岡県湖西市)に陣取る時行軍を撃破した。 同12日、遠江佐夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)付近で始まった合戦は仁木頼章・義長兄弟、細川和氏・頼春兄弟といった足利軍先鋒の奮闘もあり、またしても時行軍が敗北…

中先代の乱 その2

7月22日、鎌倉将軍府の執権 足利左馬頭直義(足利尊氏弟)が井手の沢(東京都町田市)で時行軍に直接対決を挑むが、返り討ちに遭い鎌倉に敗走する。鎌倉に戻った直義はやがて来る時行の手に渡るのを恐れるあまり、幽閉中の護良親王(後醍醐天皇第三皇子)を…

中先代の乱 その1

元弘3年・正慶2年(1333)5月22日、鎌倉幕府第14代執権を務めた北条得宗家の当主 高時(北条貞時三男)が自刃した。後醍醐天皇による鎌倉倒幕の動きに呼応した上野国の御家人 新田義貞が鎌倉に侵攻したためである。この日を以って鎌倉幕府は終焉を迎えた。 …

【緊急投稿】 今こそ佐藤信寛を知る

文化12年(1816)12月27日、長州藩下級武士 佐藤源右衛門の長男として生まれながら、幼名を三郎と称す。父源右衛門の実弟には坪井九右衛門の名がある。幕末の長州藩に興味がある人ならば坪井九右衛門と聞くだけで感じるものがあるだろう。なぜなら、坪井から…

今川粛清録 その15

こうして、駿河今川家による家臣粛清を数例紹介してきた。その手口だけを見れば、今川義元・氏真父子の卑劣さ、陰湿さが殊更際立つことだろう。しかし、父子を比較すると大きく違う点がある。 義元はこれらの粛清をおこなうことで着実に自家勢力を伸ばし、ま…

今川粛清録 その14

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 中野家歴代当主墓さて、永禄11年(1568)、籠城戦に限界を感じていた連龍は、松居郷八郎と名乗る懇意の人物を仲介として氏真からの和睦に応じた。こうして、氏真の娘と婚約する運びとなった亡き前妻の子 辰之助を…

今川粛清録 その13

但し、飯尾家の系図には致実という別人が実在する。遠江浜松荘の代官だった飯尾長連には賢連と為清の2人の子があり、賢連の嫡孫が連龍にあたる。一方、為清の嫡孫には致実の名がある。決め手は長連・賢連・乗連・連龍が代々の通称 善四郎と通字の「連」を名…

今川粛清録 その12

遠州忿劇による粛清はさらに続く。 今川氏真の家臣で、遠江引間城(引馬城・曳馬城)の城代である飯尾豊前守連龍(善四郎・致実・乗龍・政純)にも不穏な動きが生じた。 「改正三河後風土記」によると、永禄6年(1563)、今川氏真が三河牛久保城(愛知県豊川…

今川粛清録 その11

さて、天文13年(1544)12月23日、井伊直平の次男(もしくは三男)の直満・その弟の直義らが今川義元への謀反の疑いで殺害されたことはすでに述べた。この時、直満の嫡男 亀之丞(当時9歳)にも追及の手が及ぶ可能性があった。井伊直平と龍泰寺の南渓瑞聞ら…

今川粛清録 その10

そこで、驚天動地の事件が発生する。 直平・直宗・直盛と嫡流が当主になることで成り立っていた井伊家であるが、直盛には男子ができなかった。そこで、直宗の弟直満の嫡子 亀之丞(のちの井伊直親)を直盛の養嗣子にする話が持ち上がった。ところが、直満と…

今川粛清録 その9

また、直平の娘が今川家に人質として差し出されたのちに義元の側室となり、さらに義元の養妹として今川一族の関口親永に嫁いだという説がある。これも父直平が今川家との和睦に及んで人質として泣く泣く差し出したと見るのか、忠誠を誓うがゆえに自発的に差…

今川粛清録 その8

ならば、力で勝る今川家がいっそのこと井伊家を根絶やしにすればいいのではないかと考えがちだが、そこは古くから土着して遠江北部一円に一族が分布している名族である。ちなみに井伊家には赤佐・奥山・中野・井手・井平・上野・貫名などの分家がある。奥山…

今川粛清録 その7

平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の第1話で、その後の井伊家の暗雲を予兆するかのように描かれたのが、井伊直満・直義兄弟の死である。 井伊家は藤原北家、もしくは南家の血筋と伝えられ、平安時代から遠江に土着した家柄である。南北朝時代の延元2…

今川粛清録 その6

実際、義元は沓掛城(愛知県豊明市)から西南方向に向かう途上で戦死することになる。ルートから察するに、鳴海城の南を通過して大高城を目指した可能性が高い一方、西北にあたる名古屋市南区方面を目指していないことも明白である。もし義元が上洛を急ぐな…

今川粛清録 その5

ところが、ここで事態が急転する。 翌年の永禄3年(1560)、これほど見事に今川家の橋頭堡を築いた功労者とも言うべき山口教継・教吉父子が今川義元から出頭を命じられ、駿府にて切腹に追い込まれたのである。先に紹介した戸部政直の例とあまりにも酷似する…

今川粛清録 その4

戸部政直と同地域で、しかも同様の疑いを受けて謎の死を遂げたのが、山口教継・教吉父子である。そもそも山口氏は周防大内氏の一族であり、尾張に土着したとされる。 左馬助教継は教房(尾張桜中村城主)の嫡男として誕生し、織田信秀に仕えた。今川義元相手…

今川粛清録 その3

裏を返せば、信長としては、このような器量人が尾張領内に屹立しているのは甚だ目障りである。父の代は仕えていたのに、自分の代になった途端に今川に奔ったことからしても、信長にとっては不愉快極まりない存在でもある。しかも知略のみならず、目の前を横…

今川粛清録 その2

まず粛清1つ目の例は戸部新左衛門政直である。富部神社(とべじんじゃ)にある戸部城趾碑によれば下記の通りである。 「戸部新左衛門諱政直今川義元之臣也 築城於尾州戸部為人精忠恩私為君家盡力 當時織田信長以不世出之略夙有樹旗於京畿之志而今川氏虎踞東…

今川粛清録 その1

平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を観てふと思ったことがある。 駿河今川家には家臣に謀反の嫌疑が生じると、本人に駿府への出頭を命じ、取り囲んで死に追いやるという独特の粛清方法が幾つかの事例として存在するのである。 これはあくまでも推測…

小牧長久手戦跡 青塚砦(愛知県犬山市)

愛知県犬山市青塚 尾張国の二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の祭神 大荒田命(おおあらたのみこと)の墓とされる古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である。 その墳丘の全長は123メートル、後円部の高さは12メートルの規模を誇り、愛知県では断夫山古墳…

私論「下剋上・下克上」その5

翻って言えば、幕末における討幕運動の核となった長州・土佐・肥前などの雄藩は、関ヶ原合戦直後こそ減封や転封を経験しているが、江戸時代を通じて転封することなく領地との繋がりを育んだ結果、幕末には藩を挙げての兵力動員を実現することになる。 本来、…