7月22日、鎌倉将軍府の執権 足利左馬頭直義(足利尊氏弟)が井手の沢(東京都町田市)で時行軍に直接対決を挑むが、返り討ちに遭い鎌倉に敗走する。鎌倉に戻った直義はやがて来る時行の手に渡るのを恐れるあまり、幽閉中の護良親王(後醍醐天皇第三皇子)を殺害の上、撤退したという。
神奈川県鎌倉市二階堂 鎌倉宮 護良親王御土牢7月25日、時行は父祖代々の地 鎌倉を制するに至ったが、なおも追撃の手を緩めることなく駿河手越河原(静岡県静岡市駿河区手越河原)で直義の急襲に成功する。結果、直義は成良親王や足利千寿王(足利高氏三男)らを伴い、三河矢作宿(愛知県岡崎市)まで敗走した。この地は、承久3年(1221)、直義の遠祖 足利義氏が承久の乱の恩賞として三河守護に任じられて以来、代々足利氏の所領である。しかも、その守護所は矢作宿に設置された。直義としては、やっと安全地帯に逃げ込んだような心地だったに違いない。そして、ここから成良親王を京都に送り届けるとともに、兄である足利高氏に敗報を伝えた。
この直義の惨敗を挽回せんとする高氏は後醍醐天皇に征夷大将軍・総追捕使への任官を奏上する。しかし、後醍醐天皇は勅許を拒否した。時行軍の勢いも確かに脅威だが、高氏に対する警戒心のほうが強かった証拠である。ここで、高氏を征夷大将軍に補任することで、今度は足利氏による武家政権が始まるリスクを危ぶんでのことだろうか。一方、直義の兵に護衛された成良親王が帰京するや否や、後醍醐天皇は征夷大将軍に補任した。よりにもよって高氏が欲していた征夷大将軍の職を我が子に与えたのである。それも、鎌倉から逃げ帰った人物にも関わらずである。高氏に対する嫌がらせなのか、武士よりも皇族・公家を重んじる後醍醐天皇の確固たる方針なのか。
やむなく高氏は独断で京都を進発する。これは高氏が後醍醐天皇と決裂した瞬間を意味する。折しも護良親王の失脚により後盾を失った楠木正成、一族の分裂で弱体化しつつある新田義貞といった武士層の構図に変化が生じている微妙な時期である。北条時行の破竹の勢いに対抗できうるのは武士層の声望を集める足利高氏、しかし征夷大将軍の職を与えてむざむざと虎を野に放つわけにはいかない。苦し紛れの後醍醐天皇は高氏を関東管領に補任し、自身の諱「尊治」より「尊」の一字を与えた。これにより足利高氏あらため足利尊氏となったのである。さらに、北条時行軍との連戦の真っ只中である8月9日、後醍醐天皇は足利尊氏を征東将軍に補任する。征夷大将軍を与えられないせめてもの気持ちの表れだろうか。それらが尊氏本人にとってどれほどの名誉として受け止められたかは伝わっていない。
一方、尊氏の軍勢を迎え撃つ準備をしていた時行軍は、8月3日夜、折りからの嵐を避けるために鎌倉の大仏殿に避難するが、建物が倒壊したことで500余人が圧死したと伝わる。士気の低下を恐れた時行は名越式部大輔を大将に任じて西へ出陣させる。