侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

私論「下剋上・下克上」その5

翻って言えば、幕末における討幕運動の核となった長州・土佐・肥前などの雄藩は、関ヶ原合戦直後こそ減封や転封を経験しているが、江戸時代を通じて転封することなく領地との繋がりを育んだ結果、幕末には藩を挙げての兵力動員を実現することになる。

本来、幕府を絶対的権力(上位)とするならば薩摩や長州など(下位)の挙兵は下剋上・下克上」と非難されるべきである。しかし、朝廷の権威を利用して世論を巻き込むほどの大勢力になることで、本来下剋上・下克上」と解釈すべき一点は「維新」という耳障りの良い言葉に化したと言える。さらに、朝廷(錦旗)を押し立てることで、これに抗おうとする旧幕府勢力こそ朝廷に対する下剋上・下克上」を目論んでいると認識させるプロパガンダに成功した。

後世の我々は、慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争鳥羽伏見の戦いから翌年の箱館戦争終結に至るまで、どうしても戦闘の描写で追いかけてしまう。そのほうが時局がわかりやすいからである。しかし、幕末維新の思想面の複雑さにこそ本質がある。

例えば、長州藩であれば吉田松陰の主張するところは当時において凡そ受け入れられる内容ではなく、その後の藩内抗争の結果として討幕に辿り着いたに過ぎない。土佐藩筑前福岡藩なども幕府への遠慮から勤王党の粛清をおこないながら、最終的には新政府軍に合流する。会津藩越後長岡藩とて必ずしも藩論がまとまっていたわけではない。

幕府の凋落は時の流れとはいえ、弓を引くのは下剋上・下克上」であるという倫理観を奉じる武士層は一定数いたはずである。いや、どの藩においてもその考え方こそ、むしろスタンダードだったかもしれない。幕府(公儀)との共存共栄で現状維持を望む派(主に特権階級や上級武士層)と討幕による社会変革を唱える派(主に下級武士層)の対立軸はどの藩にも少なからず存在したはずである。こうした中で戊辰戦争勃発後に発生した尾張名古屋藩の「青松葉事件」などは藩内抗争を藩主の直裁で無理矢理に決着させた最も凄惨な例と言えよう。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城 青松葉事件碑f:id:shinsaku1234t501:20210103233302j:image尊王思想の強い水戸徳川家出身である徳川慶喜が朝廷への下剋上・下克上」と思われるのを嫌って謹慎に徹したのも無理からぬことであり、朝廷を手中に収めて幕府への下剋上・下克上」を目論む新政府軍、その下剋上・下克上」に立ち向かおうとする会津藩榎本武揚ら旧幕府勢力が存在したのも当然である。

さらに、その新政府軍の中心人物であった西郷隆盛明治10年(1877)に引き起こした西南戦争は、明治政府との戦闘行為にまで発展しているにも関わらず、「乱」とは表記されない。あくまでも「戦役(戦争)」と表現される。もちろん、下剋上・下克上」とも言わない。しかし、その後の西郷はご存知の通り逆賊扱いだったはずである。明らかに社会秩序に対して反逆行為をおこなったからこそ逆賊と呼ばれながら、その行為自体が下剋上・下克上」と表現されない理由は、西郷軍が敗退したためか。単に西郷軍が政府軍に負けたから下剋上・下克上」が成立していないという論法なのだろうか。

以上、下剋上・下克上」にこだわって考察してみたが、どちらに視点を置くかによって解釈が大いに変わることを附す。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103048p:image