侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

幕末維新

【緊急投稿】 今こそ佐藤信寛を知る

文化12年(1816)12月27日、長州藩下級武士 佐藤源右衛門の長男として生まれながら、幼名を三郎と称す。父源右衛門の実弟には坪井九右衛門の名がある。幕末の長州藩に興味がある人ならば坪井九右衛門と聞くだけで感じるものがあるだろう。なぜなら、坪井から…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その8

歴史愛好家の中には、「明治2年の段階で高杉が生きていれば脱隊騒動の展開は違っていたのでは」と考える向きもあるとは思うが、果たして西南戦争における西郷隆盛の如く諸隊に与したかどうかは疑問である。確かに高杉が奇兵隊を創ったとは言えるが、彼自身が…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その7

悲劇はなおも続く。苛烈な処分を以って脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允のやり方に異論を唱える前原一誠が9月2日、兵部大輔を辞職して明治政府を下野した。 そして、明治9年(1876)、旧脱隊兵や旧干城隊士を含む殉国軍を率いて彼が挙兵したのが萩の乱である。脱…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その6

まず、第二次長州征伐の際に占領した豊前企救郡(現在の福岡県北九州市・行橋市)と石見浜田藩領(現在の島根県浜田市)を朝廷の命に従い返還することとなった。すなわち、山口藩の領土が減少するからには、兵士のリストラを図らなければならない。 さらに、…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その5

これは高杉の最も怖れるところであった。というのは、奇兵隊結成から3ヶ月後の文久3年(1863)8月16日、奇兵隊と先鋒隊(のちの撰鋒隊)の間で小規模な武力衝突(教法寺事件)が発生したことで、高杉は監督責任を感じて切腹を申し出た。その結果、結成わずか…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その4

ここで問題だが、自身の生き様としては誇り高き武士に固執し、妻にも「士之女房」の教養を押し付けるほどの彼が、一方では武士以外の身分層に期待するような軍隊を結成したというのはどうにも矛盾しているのである。後年、怒りのあまり赤禰武人(奇兵隊三代…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その2

この論法からすれば、上海に渡航してイギリスによる植民地政策の何たるかに触れた経験を持つ高杉が、時代の変革を模索しても肝心の長州藩が動くはずはない。かといって、独りでできることはせいぜい反対論者の暗殺程度であって大局を揺るがすには及ばない。…

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その1

憂国・攘夷の実を思うように達せられないことに悩んでいた高杉晋作は、文久3年(1863)3月15日、長州藩京都藩邸にて10年間の賜暇を願い出た。さらに、翌日には剃髪して「東行」と号す。 「我こそは長州毛利家恩顧の臣」と豪語してやまない高杉がその気持ちと…

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その4

しかし、これほどの隆盛を極めた上林家も春松家を除いて明治以降は廃業せざるをえない状況に追い込まれた。 その一番の理由は江戸幕府という最大の顧客を失ったことに他ならない。さらに、明治初期には1,300ヘクタールほどあった宇治近辺の茶畑が、平成の頃…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その3

4月12日、江戸に潜行していた内藤・島田らは下総国府台(千葉県市川市)において旧幕府陸軍の大鳥圭介と合流し、宇都宮などに転戦しながら4月29日に会津へ辿り着く。一方、大久保大和という名前で押し通していた近藤だったが、流山から越谷の東山道先鋒総督…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その2

半月ほどの五兵衛新田駐屯中に人数を230名以上に増やしたことで、隊名を下総鎮撫隊と改称したというが、新政府軍が千住宿(東京都足立区)に迫りつつあるとの報に接し、4月1日夜、五兵衛新田を発し、途中、松戸平潟宿(千葉県松戸市)の千檀家で休憩をとり、…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その1

新選組が新選組を名乗らなかった時期を語る。 鳥羽伏見の戦いから江戸への東帰と、慶応4年(1868)正月から新選組の立場は驚くほどに転がり始めた。 江戸に帰った新選組は、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を警護していたが、幕臣として大久保剛の名を賜った近藤勇…