侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

鎌倉時代

中先代の乱 その5

しかし、翌年に足利直義が急死すると、尊氏は南朝に背き鎌倉を地盤に東国平定を図る。南朝勢力として新田義興(新田義貞次男)・新田義宗(新田義貞三男)らと共闘する時行は、武蔵小手指原で足利基氏(足利尊氏四男)と激突した。思えば、新田義貞の鎌倉攻…

中先代の乱 その4

時行にとって不倶戴天の敵とはいえ、足利尊氏もこの頃、建武政権に不満を抱いていた一人と言えよう。だからこそ、彼は時行を駆逐した後の鎌倉に居座って、京の後醍醐天皇と一線を画す結果となる。再三の帰京命令を無視された後醍醐天皇は、建武2年(1335)11…

中先代の乱 その3

8月9日、足利軍の先鋒 安保光泰は遠江橋本(静岡県湖西市)に陣取る時行軍を撃破した。 同12日、遠江佐夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)付近で始まった合戦は仁木頼章・義長兄弟、細川和氏・頼春兄弟といった足利軍先鋒の奮闘もあり、またしても時行軍が敗北…

中先代の乱 その2

7月22日、鎌倉将軍府の執権 足利左馬頭直義(足利尊氏弟)が井手の沢(東京都町田市)で時行軍に直接対決を挑むが、返り討ちに遭い鎌倉に敗走する。鎌倉に戻った直義はやがて来る時行の手に渡るのを恐れるあまり、幽閉中の護良親王(後醍醐天皇第三皇子)を…

中先代の乱 その1

元弘3年・正慶2年(1333)5月22日、鎌倉幕府第14代執権を務めた北条得宗家の当主 高時(北条貞時三男)が自刃した。後醍醐天皇による鎌倉倒幕の動きに呼応した上野国の御家人 新田義貞が鎌倉に侵攻したためである。この日を以って鎌倉幕府は終焉を迎えた。 …