侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

中先代の乱 その3

8月9日、足利軍の先鋒 安保光泰は遠江橋本(静岡県湖西市)に陣取る時行軍を撃破した。

同12日、遠江佐夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)付近で始まった合戦は仁木頼章・義長兄弟、細川和氏・頼春兄弟といった足利軍先鋒の奮闘もあり、またしても時行軍が敗北した。この戦いで時行軍の名越式部大輔は今川頼国と戦って討死した。

同14日の駿河国府での戦いでは、時行軍の尾張次郎が自害、塩田陸奥八郎・諏訪次郎が捕虜となる。同日の清見関の戦いでは千葉二郎左衛門尉らが足利軍に降伏する。

同17日、鎌倉将軍府に仕えていた三浦時明を大将とする時行軍は箱根で戦うが利あらず、清久山城守が捕虜となる。

翌日の相模川合戦において結果的には足利軍の相模川渡河を許すことになるが、足利軍に属す今川頼国が射殺され、元は得宗御内人であった小笠原七郎父子や二階堂行脩・行登らも戦死する。

こうして敗戦に次ぐ敗戦の末、8月19日を以ってついに鎌倉は陥落する。ちなみに最初から時行に付き従った諏訪頼重はじめ43人は勝長寿院にて自刃したという。しかも、その全て顔面の皮が剥いであったという。当時の人々は見分けのつかない死骸の中に時行も含まれていると思ったことだろう。

「始め遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山相模川・片瀬・腰越・十間坂、これ等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵ども、あるいは討たれ、あるいは傷を蒙りて、今わづかに三百余騎に成りければ、諏訪三河守を始めとして、むねとの大名四十三人、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して、名を滅亡の跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いで、いづれをそれとも見分けざれば、相模二郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、聞く人哀れを催しけり。」(太平記

神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目 勝長寿院f:id:shinsaku1234t501:20221030221158j:image余談だが、「太平記」では、足利軍を「源氏」と表現し、時行軍を「平家」としている。もちろん、お互いの出自からすれば間違いは無いが、この時代にあっても源平の戦いと解釈されているのは興味深い。

また、7月28日、後醍醐天皇は「信濃国凶徒頼重法師以下の輩追討」の祈禱を命じる綸旨を奈良東大寺に発給した。時行ではなく、諏訪頼重が凶徒の中心人物となっている。北条時行の名が知られていなかった可能性を感じる。f:id:shinsaku1234t501:20230226100114p:image