しかし、翌年に足利直義が急死すると、尊氏は南朝に背き鎌倉を地盤に東国平定を図る。南朝勢力として新田義興(新田義貞次男)・新田義宗(新田義貞三男)らと共闘する時行は、武蔵小手指原で足利基氏(足利尊氏四男)と激突した。思えば、新田義貞の鎌倉攻め・中先代の乱・今回の戦いと武蔵小手指原は何度も激戦地となっている。地理的に信濃方面から高崎を経て鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道(かみつみち)の要所ゆえである。
埼玉県所沢市北野2丁目 小手指原古戦場碑(元弘3年・正慶2年(1333)5月11日の新田義貞鎌倉攻めの史跡として紹介されている)この戦いに勝利した時行と義興・義宗らは鎌倉に入る。時行にとっては3度目の鎌倉奪還であった。しかし、諸方面から鎌倉に攻め寄る足利軍を前に鎌倉を捨てるしかなく、相模河原城(神奈川県足柄上郡山北町)に籠城する。結果、新田義興・脇屋義治らは越後方面に敗走するが、時行はどうやら行を共にしなかったようである。
奮闘虚しく足利基氏の捕虜となった時行は、正平8年・文和2年(1353)長崎駿河四郎・工藤次郎といった中先代の乱からの郎従とともに鎌倉龍ノ口で処刑されたという。
鎌倉で代々武家政権を掌った北条氏(先代)と、のちに京都で武家政権を展開した足利氏(後代)の間に、わずか20日余りとはいえ、鎌倉を制圧した北条時行の軍事行動を中先代の乱というのは、この所以である。
室町幕府、すなわち足利氏側の観点から書かれたと言われる「梅松論」は、この乱を酷評する。
「それとしれたる人なければ烏合梟惡の類其功をなさゞりし事、誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも廿日先代とも申也。」(梅松論)
中先代の乱とは、朝廷主導の建武政権に対する武士層の不満が蔓延した時期に発生した軍事行動である。時行のごく周囲の面々は鎌倉幕府再興とか、北条家の敵討ちのような要素で挙兵したのかもしれない。しかし、時行軍の中には三浦時明・伊東祐持・天野貞村・那和左近大夫といった鎌倉将軍府に出仕していた人物も含まれている。建武政権への不満を鎌倉幕府再興に置き換えた勢力と言えるかもしれない。
反対の足利軍には、安保光泰・小笠原七郎といった旧北条得宗家御内人や長井氏・大江氏・二階堂氏といった旧鎌倉幕府要職の家柄が見える。彼らは鎌倉幕府再興を北条氏ではなく、足利尊氏に託したのかもしれない。一概に北条氏と足利氏の戦いとは言い切れない複雑さを孕んでいるのが、この乱をかえって難しくしている。(完)