侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

2022-01-01から1年間の記事一覧

中先代の乱 その3

8月9日、足利軍の先鋒 安保光泰は遠江橋本(静岡県湖西市)に陣取る時行軍を撃破した。 同12日、遠江佐夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)付近で始まった合戦は仁木頼章・義長兄弟、細川和氏・頼春兄弟といった足利軍先鋒の奮闘もあり、またしても時行軍が敗北…

中先代の乱 その2

7月22日、鎌倉将軍府の執権 足利左馬頭直義(足利尊氏弟)が井手の沢(東京都町田市)で時行軍に直接対決を挑むが、返り討ちに遭い鎌倉に敗走する。鎌倉に戻った直義はやがて来る時行の手に渡るのを恐れるあまり、幽閉中の護良親王(後醍醐天皇第三皇子)を…

中先代の乱 その1

元弘3年・正慶2年(1333)5月22日、鎌倉幕府第14代執権を務めた北条得宗家の当主 高時(北条貞時三男)が自刃した。後醍醐天皇による鎌倉倒幕の動きに呼応した上野国の御家人 新田義貞が鎌倉に侵攻したためである。この日を以って鎌倉幕府は終焉を迎えた。 …

【緊急投稿】 今こそ佐藤信寛を知る

文化12年(1816)12月27日、長州藩下級武士 佐藤源右衛門の長男として生まれながら、幼名を三郎と称す。父源右衛門の実弟には坪井九右衛門の名がある。幕末の長州藩に興味がある人ならば坪井九右衛門と聞くだけで感じるものがあるだろう。なぜなら、坪井から…

今川粛清録 その15

こうして、駿河今川家による家臣粛清を数例紹介してきた。その手口だけを見れば、今川義元・氏真父子の卑劣さ、陰湿さが殊更際立つことだろう。しかし、父子を比較すると大きく違う点がある。 義元はこれらの粛清をおこなうことで着実に自家勢力を伸ばし、ま…

今川粛清録 その14

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 中野家歴代当主墓さて、永禄11年(1568)、籠城戦に限界を感じていた連龍は、松居郷八郎と名乗る懇意の人物を仲介として氏真からの和睦に応じた。こうして、氏真の娘と婚約する運びとなった亡き前妻の子 辰之助を…

今川粛清録 その13

但し、飯尾家の系図には致実という別人が実在する。遠江浜松荘の代官だった飯尾長連には賢連と為清の2人の子があり、賢連の嫡孫が連龍にあたる。一方、為清の嫡孫には致実の名がある。決め手は長連・賢連・乗連・連龍が代々の通称 善四郎と通字の「連」を名…

今川粛清録 その12

遠州忿劇による粛清はさらに続く。 今川氏真の家臣で、遠江引間城(引馬城・曳馬城)の城代である飯尾豊前守連龍(善四郎・致実・乗龍・政純)にも不穏な動きが生じた。 「改正三河後風土記」によると、永禄6年(1563)、今川氏真が三河牛久保城(愛知県豊川…

今川粛清録 その11

さて、天文13年(1544)12月23日、井伊直平の次男(もしくは三男)の直満・その弟の直義らが今川義元への謀反の疑いで殺害されたことはすでに述べた。この時、直満の嫡男 亀之丞(当時9歳)にも追及の手が及ぶ可能性があった。井伊直平と龍泰寺の南渓瑞聞ら…