侍を語る記

侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その11

さて、天文13年(1544)12月23日、井伊直平の次男(もしくは三男)の直満・その弟の直義らが今川義元への謀反の疑いで殺害されたことはすでに述べた。この時、直満の嫡男 亀之丞(当時9歳)にも追及の手が及ぶ可能性があった。井伊直平と龍泰寺の南渓瑞聞らは密かに亀之丞を井伊谷から脱出させ、信濃方面に逃した。

その亀之丞が井伊直親として井伊谷に戻ってきたのは、弘治元年(1555)のことである。さらに、従兄にあたる井伊直盛が永禄3年(1560)の桶狭間合戦で戦死すると、その家督を継いで井伊家当主となる。

しかし、井伊直平の外孫とされる築山御前の夫 松平家康(のちの徳川家康)が三河から遠江侵入のタイミングを窺い始める。駿河の今川、三河の松平に挟まれた「遠州忿劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる遠江地域の混乱である。

「これより先、今川義元、信長と戦つて敗死す。その子氏真、暗弱にして、嬖臣三浦義鎮に任ず。国人服せず。我が徳川公、嘗て今川氏に属す。亦た今川氏を去つて織田氏に属す。兵力、日に強し。この時、信虎猶ほ在り。信濃に流寓す。人をして信玄に言はしめて曰く、「駿河乱る。将に徳川氏の有つ所とならんとす。汝宜しく先づこれを取るべし」と。」(日本外史

甲斐追放後、今川家に流寓していた時期がある武田信虎でさえ、遠江の混乱が徳川家に有利と見るや、息子の信玄に駿河への侵攻を促す始末である。このタイミングで井伊直親が今川家に見切りをつけ、密かに家康と気脈を通じるとすれば、それもまた理の当然と言えよう。しかし、この疑惑を今川氏真に讒言したのは井伊家代々の家老職にある小野政次(道好)である。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 小野政次一族供養墓(中央より左寄りの尖った墓石、その左右は同時に処刑された子の幼泡童子・幼手童子の墓石)f:id:shinsaku1234t501:20220117011711j:image父親とされる小野和泉守政直が井伊直満・直義兄弟の謀反の嫌疑を今川義元に通報したのと同じく、その嫡男と言われる但馬守政次がこれまた直満の実子である井伊直親を謀反の嫌疑で今川氏真に通報したのである。

これを受けて、氏真がまさに直親追討を決断しようとしたところ、故井伊直盛正室 祐春尼の父である新野左馬助親矩が必死の嘆願を試みた。結果、追討を免れた代わりに直親自身が駿府へ出頭して氏真に申し開きをする運びとなった。こうして直親は駿府に向かう途上、朝比奈泰朝の襲撃を受け、わずかな家臣ともども掛川にて惨殺される。これについては、拙ブログ「十九首塚」でも述べているので、併せてご参照いただきたい。

申し開きのための手薄な道中を襲撃したとあっては、もはや謀殺でしかない。また、襲撃した朝比奈泰朝桶狭間合戦の折、先代当主の井伊直盛とともに鷲津砦の攻撃で一緒だった縁を考えると皮肉な話と言わざるを得ない。

静岡県浜松市北区細江町中川 井伊直親f:id:shinsaku1234t501:20220117012058j:image