侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

2018-01-01から1年間の記事一覧

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その6

五十人にも満たない兵力で挑む、この戦いをことさら有利に展開するため、彼らはさまざまな演出を凝らしていた可能性がある。近隣邸・部外者に対しては、討ち入りの挨拶・火気の始末など、実にあっぱれな仕儀を見せ、結果的に旧赤穂家臣に寄せる同情や人気は…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その5

しかし、浅野長広を擁したお家再興が潰えた時、彼の中から一抹の期待さえもが奪われた。生への執着を捨てなければならない決断の瞬間でもある。元筆頭家老として、また同志盟約の長として、もっとも避けたかった方向に進まざるをえない。筆舌に尽くしがたい…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その4

冷静に考えれば、将軍生母桂昌院の栄誉に関わる式典という場所柄もわきまえず、主君浅野長矩が刃傷に及んだ以上、将軍家の怒りは尤もであり、お家再興など極めて難しい。 願わくば、長矩の弟、長広が小さくでもお家を残すことさえできれば、これ幸いである。…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その3

実際、当時の大石の胸中は複雑極まりないものだったと推察される。例えば、赤穂藩改易が決定した時、大石がまず藩札の交換整理に着手している、という事実は、彼が誰よりも早く「お取り潰し」という現実を冷静に受け止めていた証拠となる。時代劇などでは、…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その2

愛知県西尾市吉良町岡山山王山 片岡山華蔵寺 吉良義央墓そこで、また疑問に思うことがある。大石良雄の本当の狙いは吉良の首にあらず、片手落ちな裁決を下した幕府に対する挑戦だという、いかにもエンタテインメント的な味付けである。 果たして、そうだろう…

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その1

時代劇の定番にして、出尽くした感が強い「忠臣蔵」。 浅野側を「善玉」・吉良側を「悪玉」とした明確な勧善懲悪設定のもとで、討ち入った赤穂義士には毎回喝采が沸き起こる。 そもそも、この有名なストーリーは歌舞伎を上演するにあたり、幕府の目を憚って…

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。 愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址(前田利家卿誕生之遺址碑)…

勃興の前田利昌

前田利家は言わずと知れた加賀・能登の太守だが、その出身地は尾張海東郡(愛知県名古屋市中川区)である。正確な誕生地については、父利昌が天文年間まで居住していたとされる前田城、移住先の荒子城と2つの説が存在する。 出自も利仁流藤原氏を祖とする説…

臼井城 後編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園 こうして、永らく臼井氏の居城だった臼井城は千葉胤富の家臣、原氏の時代を迎える。 しかし、永禄9年(1566)3月20日、上杉輝虎の関東出兵に従う結城晴朝・酒井胤治ら、さらに呼応した里見義堯・里見義弘らの大軍に四方を包…

臼井城 前編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園 下総臼井城は、千葉常兼の三男 臼井六郎常康の築城とされるが定かではない。 文明10年(1478)12月10日の境根原合戦(千葉県柏市)で太田道灌・千葉自胤らに敗れた千葉孝胤は、臼井俊胤の居城 臼井城に籠城した。 千葉県柏…

多部田城(千葉県千葉市若葉区)

千葉県千葉市若葉区多部田町 城主については定かではないので「千葉実録」など諸説を拾遺して紹介する。鎌倉時代、千葉常胤の四男である多部田四郎こと、大須賀胤信が地頭として在地したことから築城されたと推察される。 宝珠山最福寺 多部田城土塁戦国時代…

小牧長久手戦跡 上末城(愛知県小牧市)

愛知県小牧市上末 国道155号線沿いにある上末城址小牧長久手合戦の関係城砦を地図で俯瞰すると非常に分かりやすい。犬山城から南の小牧市方面に張り出すように展開する羽柴秀吉軍と小牧山城を中心とした織田信雄・徳川家康軍が犬山城に向けて備える。 上末城…

宍戸城(茨城県笠間市)

宍戸城は鎌倉・安土桃山・江戸に大きな転機を迎える。 宇都宮宗綱の四男である八田知家が、源義朝の没落と頼朝・頼家の幕府体制に歴仕する中で常陸守護職に任じられる。 笠間市平町 新善光寺址(中央右 八田知家墓、左 宍戸家政墓)長男の知重こと常陸小田氏…

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。 後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。 滋賀県長浜市早崎…

豊臣家臣団 その29

そもそも、合戦や戦争はどちらも正義を主張して譲らないからこそ発生するものである。どちらかだけに絶対的正義があるという事例などほぼ無い。逆説的に言えることは、豊臣家臣団の盛衰を的確に把握するためには、むしろ敵方の家康、もしくは彼に与した豊臣…

豊臣家臣団 その28

さて、同時代を生きた徳川家康だが、ただ座っていたら棚からぼた餅が落ちてきたわけではない。信長との同盟を堅守し、信玄とともに旧主今川家を滅ぼし、秀吉に楯突くことなく常に支え、豊臣家を滅ぼしたのちに朝廷・公家・寺社までも制した。そこには、忠義…

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していた…

豊臣家臣団 その26

では、大坂方はどうあるべきだったのか。これはあくまでも私見である。 確かに、堅固な城郭と豊富な蓄財、天下人太閤秀吉というブランド力を頼りにするから、たとえ幕府を開いたとはいえ、徳川家とは別格の位置、いやむしろ上席の待遇にあって然るべしと考え…

豊臣家臣団 その25

しかし、これらの事実が、ともすると片桐且元の徳川内通説や織田有楽斎の徳川スパイ説となるのは、史料や彼らの立ち位置に基づいていないがゆえ、いささか本人たちが気の毒にさえ思える。むしろ、彼らこそお家存続の落とし所を探っていた最後の豊臣恩顧だっ…

豊臣家臣団 その24

また、淀殿の後見役として徳川家との和平を第一に考えていた慎重論者の織田長益こと有楽斎でさえ、夏の陣に突入していく主戦論の高まりの中で「もはや城内の誰も自分の意見を聞かない」と報告することで、家康の許可を得て大坂城を退去した。 家康の許可を得…

豊臣家臣団 その23

例えば、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が発生すると、釈明のため駿府に派遣された且元は家康に拝謁を許されず、後から派遣された大蔵卿が家康に歓待されたという有名なエピソードがある。ここだけ見ると、且元が交渉相手として軽く見られ、大蔵卿のほう…

豊臣家臣団 その22

さらには、豊臣家にあってもその踏み絵を踏んだ人物が2人いる。 徳川家の傘の下で豊臣家を存続すべく奔走し続けた片桐且元は、大坂方から裏切者として命を狙われた挙句、幕府軍に加わった。大坂冬の陣では三浦按針経由で幕府が入手した最新鋭の英国製カルバ…

豊臣家臣団 その21

唯一、馳せ参じた豊臣恩顧の動きを紹介するならば、増田長盛・盛次父子と言えるかもしれない。 愛知県稲沢市増田南町 八幡社 増田長盛邸址碑関ヶ原合戦において西軍に属したため、増田家は改易となり、長盛は高野山での蟄居を経て武蔵岩槻に配流、長男で庶子…

豊臣家臣団 その20

また、関ヶ原合戦で西軍寄りの動きをした蜂須賀家政に至っては、大坂方からの勧誘の使者に対して「無二の関東方」と称して断り、家康にその密書を提出するほどの旗幟鮮明ぶりを見せる。 薩摩の島津家久にしても大野治長から3回にわたって同心を要請されたが…

豊臣家臣団 その19

関ヶ原合戦からわずか3ヶ月後の12月19日、家康は以前に関白を歴任したことのある九条兼孝の関白再任を奏上した。秀吉・秀次と続いた豊臣家の関白職世襲のような雰囲気を打ち消す目的かもしれない。同時に、関ヶ原の勝者 家康が朝廷の任官において発言力を持…

豊臣家臣団 その18

【藤堂高虎】徳川家との血縁はないが、秀吉の生前から家康に接近していたことで、譜代大名に準ずる扱いを受けたのは有名である。秀忠の代になっても徳川家の忠誠は揺るがず、元和5年(1619)、徳川和子入内に関する「およつ御寮人事件」では徳川家の使者とし…