侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

2023-01-01から1年間の記事一覧

相応院を巡る人々 後編

一方、於亀の方の二番目の夫であった石川光元は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、翌年死去する。残された於亀との間の子 光忠は慶長13年(1608年)、徳川家康に召し出される。慶長15年(1610)には美濃や摂津など計1万300石の知行を賜り、慶長17年(…

相応院を巡る人々 前編

徳川家康の側室、のちの相応院は石清水八幡宮の祠官 志水宗清の娘である。名は於亀と伝わる。 天正19年(1591)、最初に嫁いだ竹腰正時との間に万丸(のちの竹腰正信)を設ける。正時という人物については別名もあり、はっきりとしない部分が多いが、斎藤道…

小牧長久手戦跡 蟹江城 後編(愛知県海部郡蟹江町)

後世、武将としての資質や実績を比較すると、家康が秀吉よりも優っていたと断じられる根拠として、小牧長久手の戦いがまず挙げられる。やむを得ない。家康と秀吉が直接対決したのは、小牧長久手の戦いしかないのだから、この一連の中で判断しがちであること…

小牧長久手戦跡 蟹江城 中編(愛知県海部郡蟹江町)

そして、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いは双方睨み合いの状態にあった。6月15日、滝川一益・九鬼嘉隆ら羽柴秀吉軍の水軍数十艘3,000の兵が伊勢白子(三重県鈴鹿市白子町)を発し、16日早朝には蟹江沖に姿を見せた。 迎え撃つ織田信雄軍の蟹江城主 佐久…

小牧長久手戦跡 蟹江城 前編(愛知県海部郡蟹江町)

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 中先代の乱ののち、南朝に属して足利氏に抵抗を続けていた北条時行が、正平8年・文和2年(1353)に処刑された。その後、次男 平太郎時満の子、平五郎時任が尾張西部に蟹江城を築城したとされる。永享年間(1429〜1440)のことと伝…

中先代の乱 その5

しかし、翌年に足利直義が急死すると、尊氏は南朝に背き鎌倉を地盤に東国平定を図る。南朝勢力として新田義興(新田義貞次男)・新田義宗(新田義貞三男)らと共闘する時行は、武蔵小手指原で足利基氏(足利尊氏四男)と激突した。思えば、新田義貞の鎌倉攻…

中先代の乱 その4

時行にとって不倶戴天の敵とはいえ、足利尊氏もこの頃、建武政権に不満を抱いていた一人と言えよう。だからこそ、彼は時行を駆逐した後の鎌倉に居座って、京の後醍醐天皇と一線を画す結果となる。再三の帰京命令を無視された後醍醐天皇は、建武2年(1335)11…