侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

相応院を巡る人々 後編

一方、於亀の方の二番目の夫であった石川光元は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、翌年死去する。残された於亀との間の子 光忠は慶長13年(1608年)、徳川家康に召し出される。慶長15年(1610)には美濃や摂津など計1万300石の知行を賜り、慶長17年(1612)には、家康の命で尾張徳川義利の御附家老となり、名古屋城代も務めた。また、大坂の陣には義利に従い出陣もしている。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城復元天守f:id:shinsaku1234t501:20230903204614j:imageまた、家康が於亀の方を側室にした時に父の志水宗清・弟の忠宗も仕官したものと思われる。忠宗は関ヶ原合戦の功で500石を賜った。さらに慶長12年(1607)、甥にあたる徳川義利が尾張清洲に封じられると、尾張大高5,000石を賜り、大坂の陣では名古屋城代家老を務めた。また、志水宗清も尾張名古屋藩の宿老となって孫の義利に仕えたという。

愛知県名古屋市緑区大高町城山 大高城址f:id:shinsaku1234t501:20230828223210j:image一方、於亀の方は慶長18年(1613年)、浅野幸長紀伊和歌山37万石)が嗣子なく没すると、その弟 長晟の家督相続を後押しした。すでに慶長13年(1608)に尾張徳川義利と春姫(浅野幸長女)の婚約が成立していたという背景があったからである。

なお、この件で於亀の方の付託を受けて動いた義利の家臣 山下氏勝は於亀の方の妹婿にあたる。家康の命で早くから駿府城で義利の傅役を仰せつかり、清洲城から名古屋城への本拠地移転(清州越し)を家康に進言した人物でもある。彼もまた於亀の方の推挙で開けた運をしっかりと掴んだと言えよう。

さて、於亀の方は家康没後、剃髪して相応院と名乗り、義利あらため義直の居城 尾張名古屋城で暮らし、寛永19年(1642)閏9月16日、江戸屋敷で死去する。寛永20年(1643)、義直は母の一周忌に際して宝亀山公安院相応寺(名古屋市東区山口町)を建立した。

慶安3年(1650)、義直が江戸で没した時も遺骨が当寺にて供養され、のち応夢山定光寺(愛知県瀬戸市定光寺町)の源敬公廟に葬られた。代わって、竹腰正信の代々の子孫が相応寺に葬られ、今は平和公園に墓がある。

その後、昭和7年(1932)に現在地である名古屋市千種区城山町に移転した。現在の相応寺は織田信秀ゆかりの末森城址に隣り合わせる地にひっそりと佇む。

愛知県名古屋市千種区城山町 宝亀山公安院相応寺 相応院墓f:id:shinsaku1234t501:20230828221527j:imageまことに相応院の前半生は数奇な運命であったが、最後に生んだ子、尾張徳川義直を囲むようにゆかりの人物が結集した感がある。相応院の最初の子 竹腰正信、次の子 石川光忠、故仙千代の養父 平岩親吉、実父の志水宗清、実弟の志水忠宗、妹婿の山下氏勝など、ほとんどは家康の寵愛を受けた相応院の口添えがあったればこそとは思うが、尾張名古屋藩は相応院の血脈を以って成立したと言っても過言ではない。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230904003720p:image