侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その6

実際、義元は沓掛城(愛知県豊明市)から西南方向に向かう途上で戦死することになる。ルートから察するに、鳴海城の南を通過して大高城を目指した可能性が高い一方、西北にあたる名古屋市南区方面を目指していないことも明白である。もし義元が上洛を急ぐならば、西北に進路を取って一刻も早く熱田に肉迫するほうが信長への直接的な圧力となるはずである。

しかし、義元にとってはせっかく手に入れたはずの名古屋市南区一帯の戸部・山口父子を立て続けに粛清したことで直接向かうことを忌み嫌い、ひとまず安全地帯である鳴海城か、大高城を目指したのかもしれない。

一方、信長からすれば名古屋市南区の戸部や山口といった障壁が無くなったことで鳴海城・大高城への視界が開けたことになる。実際の桶狭間合戦時に、信長は熱田から鎌倉街道を丹下砦、次いで善照寺砦とスムーズに着陣している。ただ、戸部城や桜中村城の周辺をいささか迂回するようにして古鳴海を経由していることに意味があるのだろうか。

愛知県名古屋市緑区鳴海町砦 砦公園 善照寺砦址f:id:shinsaku1234t501:20210815212510j:image信長としては、ここに重大な問題が発生する。ひとたび義元本隊が鳴海城、もしくは大高城に入城してしまえば、連携するこの両城を無勢の織田軍が攻めるのは至難の業となる。ましてや、大高城の沖には義元に呼応すべく服部友貞率いる服部党が停泊している。案の定、これと連絡を果たした今川軍が船で北上でもしようものなら、熱田をはじめ尾張沿岸部が蹂躙される恐れもある。

愛知県名古屋市緑区大高町城山 大高城跡公園 大高城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20210815212551j:image大高城本丸址f:id:shinsaku1234t501:20210815212635j:imageならば、なんとしても沓掛城から鳴海城に至るまでのどこかで野戦に持ち込むしかない。そのためには鷲津砦の攻略に当たっている朝比奈泰朝・丸根砦の攻略に当たっている松平元康らが反転して信長に襲いかかるようなことがあっては困る。

また、大高城主の鵜殿長照・鳴海城主の岡部元信らが義元への援軍として出撃したら挟撃される恐れもある。大高城や鳴海城の動きを封じるためには、玉砕覚悟で鷲津・丸根両砦を囮にして、その一帯の今川軍を釘付けにしておく必要がある。そう考えると、信長の胸中では「桶狭間」という戦場は偶然の地ではなく、むしろ計算された場所だった可能性さえある。

以上、戸部政直や山口教継・教吉父子の粛清を語ってきたが、別の視点から考察してみたい。信長の父、織田信秀今川義元と幾度となく戦ったが、そのいずれも戦場は三河であった。岡崎近郊の小豆坂や安祥城(現在の安城市)などである。つまり信秀は義元に尾張領内に侵攻されるような戦さはしなかったのである。それが、先にも述べた通り、天文18年(1549年)11月の安祥城合戦ののち戸部政直の肝煎りで人質交換がおこなわれたのは名古屋市南区笠覆寺であり、山口父子が今川家に寝返ったことで名古屋市南区から緑区一帯が今川家の勢力下になったことを併せ考えると、信秀の晩年から信長に代替わりする頃は織田家に一時的な弱体化の時期が到来していたことを物語っている。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦とは、今川義元三河どころか尾張領内に入り込み、初めて信長と直接対峙した戦さである。そして、尾張国内にここまで見事に今川家の版図を築いたのは戸部や山口父子の抜群の功があったればこそと言えよう。しかし、それでも粛清されたのである。