侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

今川粛清録 その4

戸部政直と同地域で、しかも同様の疑いを受けて謎の死を遂げたのが、山口教継・教吉父子である。そもそも山口氏は周防大内氏の一族であり、尾張に土着したとされる。

左馬助教継は教房(尾張桜中村城主)の嫡男として誕生し、織田信秀に仕えた。今川義元相手の三河小豆坂合戦でも戦功があり、信秀の信任が厚い人物であった。のち鳴海城主に任じられたが、信秀の死をきっかけにして今川義元に寝返った。天文21年(1552)、鳴海城を嫡子九郎二郎教吉に任せると、笠寺に砦を築いて葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏ら今川勢を引き入れ、自身は桜中村城に籠城した。

「鳴海の城主山口左馬助・子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿御目を懸けられ候処、御遷化候へば程なく謀叛を企て、駿河衆を引入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入置き、一、笠寺へ取手・要害を構へ、かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。一、中村の在所を拵、父山口左馬助楯籠。」(信長公記

愛知県名古屋市南区桜田町2丁目 桜公園 桜中村城址f:id:shinsaku1234t501:20190811214844j:image4月17日、織田信長は兵800を以って那古野城を出陣し、鳴海に急行する。対する山口教吉は兵1,500で鳴海城を出て赤塚に陣取る。この赤塚合戦は織田軍に討死30騎と記されるだけで、勝敗を決するほどではなかった。

なおも父の教継は、永禄2年(1559)、水野大膳の大高城と近藤景春の沓掛城を調略で手に入れる。今の名古屋市南区緑区から豊明市に至る一帯を今川家の版図に塗り替えたのである。それだけではなく、知多半島の根元部分に今川軍の楔が打ち込まれた形となる。信長にしてみれば尾張国を南北で分断される危険性がある。早速、大高城に対して丸根・鷲津・正光寺・向山・氷上の各砦を、鳴海城には善照寺・丹下・中島の三砦を築いて監視体制を怠らない。

愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下 丹下砦址f:id:shinsaku1234t501:20210613215053j:image「これより先、鳴海の城将山口某、畔いて今川に附く。また大高・沓懸二城を取り、更に村木に城く。信長、村木を攻め下し、また笠寺城を攻む。城将戸部某、驍勇にして下すべからず。信長、兵を収めて帰る。戸部、書を善くするを以て、侍史をしてこれを学ばしむ。期年にして得たり。乃ち戸部の織田氏に通ずるの書を贋作し、森可成をして偽つて賈人となり、齎して駿河に赴き、これを義元に上らしむ。義元怒り、戸部を召してこれを殺し、また山口父子を殺す。義元、既に駿河遠江三河を定め、将に大挙して尾張を攻めんとす。信長、諸城塁を修め、佐久間大学をして鷲津を守り、飯尾定宗をして丸根を守らしめて、大高・笠寺の兵と数ゝ戦つて、決せず。」(日本外史f:id:shinsaku1234t501:20230226102045p:image