侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

小牧長久手戦跡 蟹江城 前編(愛知県海部郡蟹江町)

愛知県海部郡蟹江町城1丁目

中先代の乱ののち、南朝に属して足利氏に抵抗を続けていた北条時行が、正平8年・文和2年(1353)に処刑された。その後、次男 平太郎時満の子、平五郎時任が尾張西部に蟹江城を築城したとされる。永享年間(1429〜1440)のことと伝わる。

しかし、これには尾張守護 斯波氏の修築、はたまた天文年間(1532~1555)に渡辺源十郎なる伊勢長島一向一揆の関係者による築城説もあり、未だはっきりとしない部分がある。

しかし、北条時任が清洲から御薗神明社を勧請して蟹江城の南方に蟹江神明社を創建した由来がある。また、のちに時任が愛知郡横江村(愛知県名古屋市中村区横井)に移住し、その子の源五郎時利が横井氏に改姓した話もある以上、尾張の西部地域における時任の影響は排除できないと思われる。

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 蟹江城址公園 蟹江城址f:id:shinsaku1234t501:20230506001607j:imageこの蟹江の地は蟹が繁殖する入江を指し、尾張と伊勢の境に水運が発達したことで、熱田や津島と並ぶ尾張有数の湊だったらしい。そこに本丸・二ノ丸・三ノ丸を兼ね備えた平城が築かれたのである。当然、要所ゆえに攻防の歴史舞台となる。

弘治元年(1555)、駿河今川義元は蟹江城攻略に乗り出す。当時、三河岡崎の松平広忠はすでに没しており、その嫡男の次郎三郎元信(のちの徳川家康)はまだ駿府で人質の身である。今川軍が大給松平親乗率いる三河岡崎衆を先鋒とするのに対し、当時の蟹江城主は織田民部と称するが、信長との関係は不詳である。この時の岡崎衆のうち、大久保忠俊(大久保忠勝の説あり)・大久保忠員大久保忠世大久保忠佐阿部忠政・杉浦吉貞・杉浦勝吉ら7人の軍功が特に抜群であったことから、世に「蟹江七本槍」と称された。

愛知県岡崎市竜泉寺町百々 海雲山長福寺墓地 大久保忠員f:id:shinsaku1234t501:20230506004157j:imageこの蟹江落城により、今川義元は荷之上城(愛知県弥富市荷之上町)に割拠する反信長勢力の服部友貞を救援し、尚且つ津島をも脅かして信長の背後を突くことができた。そして何よりも今川家の動員力が那古野の背後・清洲の喉元にまで及んでいたことを窺わせる。

すでに信長の家臣になっていたと思われる滝川一益は、永禄3年(1560)、尾張・美濃と境を接する伊勢長島・桑名付近を重視する策を進言する。そこで旧知の服部友貞を語らって蟹江城を修築させた。しかし、永禄8年(1565)になると滝川一益織田信興織田信秀七男)らが友貞の留守に挙兵して蟹江城を占拠した。こうして、一益・信興らは織田軍の北伊勢方面軍として伊勢国司北畠氏や長島一向一揆と対峙していくことになる。f:id:shinsaku1234t501:20230516222820p:image