侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その12

遠州忿劇による粛清はさらに続く。

今川氏真の家臣で、遠江引間城(引馬城・曳馬城)の城代である飯尾豊前守連龍(善四郎・致実・乗龍・政純)にも不穏な動きが生じた。

「改正三河風土記」によると、永禄6年(1563)、今川氏真三河牛久保城(愛知県豊川市)を本陣とし佐脇砦・八幡砦に展開して、松平家康(のちの徳川家康)家臣 本多信俊の守る一宮砦(愛知県豊川市)を包囲した戦いがある。その際、飯尾致実(連龍)は氏真から後方にある三河吉田城(愛知県豊橋市)の後詰めを命じられた。致実は引間城を出陣したものの、病と称して引き返す途中、なぜか新居・白須賀付近に放火したという。

ここに及んで氏真は命に背いた致実の討伐を命じる。新野親矩・之矩兄弟率いる3,000の兵が押し寄せるが、迎え撃つ致実は矢砲(炮烙玉)を放って応戦し、今川方の新野親矩は鉄砲によって戦死したとされる。そんな折、甲斐の武田信玄の動きが活発化し始めた。氏真としてはひとまず致実と和睦するしかなかった。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 新野親矩f:id:shinsaku1234t501:20220227082808j:imageしかし、永禄7年(1564)4月7日、致実は松平家康と引間城内にある東漸寺にて何かしらの会談をしたと伝わる。その直後、家康は今川家の保護が厚い浜名郡鷲津(静岡県湖西市)の本興寺に乱入する。こうした家康の跳梁は当然、今川氏真の連龍に対する疑念をさらに掻き立てた。

こうして、氏真は朝比奈秀盛(のちの朝比奈信置)や瀬名親隆・氏範父子らに引間城攻撃を命じる。この籠城戦のさなか、致実は起請文を付けた矢文を放ち「何者かの讒言による偽情報であって、今川家に対して二心はない。」と潔白を主張する。これが功を奏したのか、城の囲みが解かれた。致実はその挨拶のため駿府に赴く。永禄8年(1565)12月20日駿府に出頭した致実は伏兵に囲まれ謀殺された。

静岡県浜松市中区元城町 元城町東照宮 曳馬城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20220227062304j:image「又今川氏眞ハ去年三州發向佐脇八幡に在陣せし時飯尾豊前守致實が徳川殿へ内通し病と稱し居城遠州引間へ引返すとて其道すがら新井平須賀邊の驛舎に放火して歸りし事を大に憤り氏眞駿州へ歸府の後早速に引間を故致實を生捕て其虚實を鞠問せんとて新野右馬助親矩其弟式部少輔之規を大將とし三千餘人を差添へ引間の城へさし向短兵急に攻させしに豊前守さる古つハものなれば少しも恐れず矢炮を飛し防戰す寄手の大將新野右馬助鉄炮にあたりてうたれ死す依て散々に敗れ駿州へ迯歸れば氏眞益怒りかさねて朝比奈備中守泰能瀬名陸奥守親隆其子中務大輔氏範朝比奈兵太夫秀盛等に大勢を差添攻かこみ晝夜を分たず攻しかども致實防戰の術を盡し寄手の手負死人ばかりにて城落べしとも見へず其時致實矢文を射出し其讒者の爲に無實の罪を蒙り遺恨せん方なし一時の急難をのぞかんが爲防戰するといへども全く異心を抱くにあらず早く讒者の虚實を糺明有て恩免を蒙らバ彌ゝ二心なく忠勤すべしとしたゝめ起請文に添て贈りけれバ討手の輩是を駿府に贈り氏眞に見せしむ氏眞爰に於て討手の輩呼返し致實が罪を免し此後ハ懇意に恩義を施しけれバ致實も忝くや思ひけん禮謝の爲に駿府へ來りけるを氏眞謀をめぐらし壮士を伏置不慮に殺害せり」(改正三河風土記