侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

小牧長久手戦跡 蟹江城 後編(愛知県海部郡蟹江町)

後世、武将としての資質や実績を比較すると、家康が秀吉よりも優っていたと断じられる根拠として、小牧長久手の戦いがまず挙げられる。やむを得ない。家康と秀吉が直接対決したのは、小牧長久手の戦いしかないのだから、この一連の中で判断しがちであることは否めない。しかし、膠着状態が多かったこの戦役の中で戦況を変えるほどの意味を含んだのは、以下の局地戦に限られるだろう。

⚫️秀吉の本陣となる橋頭堡を確保した犬山城合戦

⚫️家康の野戦を見せつけた羽黒八幡林合戦(詳細は拙稿「小牧長久手戦跡 野呂塚」をご参照いただきたい。)

⚫️以後の膠着状態の原因となった長久手合戦

⚫️家康と信雄の地理的分断を阻止した蟹江城合戦

中でも、「志津ケ嶽ノ軍ハ、太閤一代ノ勝事、蟹江の軍ハ、東照宮一世の勝事也」(老人雑話)とあるように、蟹江城を巡る攻防は長久手合戦を凌ぐかのように語られている。

確かに、賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の機動力に匹敵するほどの家康の機敏な動きは特筆すべきであろう。特に「暗愚」のイメージが強い織田信雄が戦場で活躍する姿にしても、家康の好判断やリードが大いにあったればこそと思われる。だからこそ秀吉は家康と信雄の分断を図り、のち信雄のみを飲み込むように和睦を画策したのであろう。

また、尾張の東方で起きた長久手合戦と西方で繰り広げられた蟹江城合戦は、どちらも分断と攪乱を意図して秀吉が仕掛けた「中入り作戦」であり、これらの裏をかいた家康の動きには鬼神の如き凄まじさを感じる。例えば、家康の戦歴の中で、後年の関ヶ原合戦大坂の陣は、どこか老獪や狡猾に裏打ちされた、さながら横綱相撲のような印象を受ける。対して、小牧長久手合戦における一連の身のこなしは、むしろ自ら戦陣に立ち向かうような勢いや若さ、躍動感があるような気がする。

さて、家康・信雄連合軍の織田長益が和睦交渉を取りまとめた結果、7月3日、蟹江城は家康・信雄連合軍に降伏開城された。

しかし、城から退去中の前田長定一族が家康の攻撃により皆殺しにされ、滝川一益もほうほうの体で伊勢神戸城(三重県鈴鹿市神戸)に逃れたという。

また、異説では一益から降伏開城の申し出を受けた家康が条件を出したという。

参議曰く、「叛将を斬つてこれを献じ、尽く邑を信雄に致さば、則ち死を宥さん」と。一益尽くその命の如くす。(日本外史

一益は家康からの条件に従い、叛逆者 前田長定の首級とともに起請文を差し出されたとされる。どちらの説にしても、そもそも長定の裏切りから蟹江城合戦が始まったとする事実にどうにも怒りが収まらない家康の処断の意思が垣間見える。こうして、織田信長麾下の猛将と謳われた滝川一益と前田本家の没落を以って蟹江城合戦は終結した。

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 蟹江城本丸井戸跡f:id:shinsaku1234t501:20230605095300j:image5日、家康は一旦、桑名城に入城したが、13日には清洲に帰城する。これ以降、11月11日の和睦成立まで双方目立った軍事行動はなかった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605101321p:image