侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

今川粛清録 その8

ならば、力で勝る今川家がいっそのこと井伊家を根絶やしにすればいいのではないかと考えがちだが、そこは古くから土着して遠江北部一円に一族が分布している名族である。ちなみに井伊家には赤佐・奥山・中野・井手・井平・上野・貫名などの分家がある。奥山家や中野家は、実際に「おんな城主 直虎」にも主要キャストとして登場した。全くの余談だが、貫名家は日蓮宗の宗祖 日蓮を輩出した家と言われる。

何よりも井伊家を敵に回すことは、遠江北部の山峡部でゲリラ戦を覚悟しなければならない。斯波家を追放することで遠江守護職を奪還した今川家としては、武田の甲斐・北条の相模・小領主や土豪が乱立する三河など隣国の動静に気遣う一方で、自領となった遠江でわざわざ掃討戦を演じるべきではない。徒らに戦に持ち込めば、かえって同調勢力の挙兵を招くリスクがある。また、内乱の鎮圧にてこずろうものなら、信濃経由で武田が乱入する、北条に駿河を突かれる、などつけ入る隙を与えることになる。ここは力ずくで滅ぼすよりも手なずけるほうが得策とでも考えたのだろうか。

なお、大河ドラマの影響もあって今川家が権力をかさに井伊家を常に圧迫し続けたと思いがちだが、これにはいささか検証の余地がある。

例えば、井伊直平の嫡男直宗は天文年間(1532〜1555)に三河原城の攻撃中に戦死したとされる。また、直宗の嫡男直盛も、かの桶狭間合戦で戦死した。これらの事実を今川義元から信用されていない井伊家が捨て駒にされた証拠と見ることもできるが、当時の武士にとっては先陣や殿(しんがり)など難関の攻撃を命じられるのは、むしろ武士の誉れとも解釈できる。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍潭寺 井伊直盛f:id:shinsaku1234t501:20211021211011j:image特に直盛の場合、桶狭間合戦において今川軍の先鋒を任されていた事実から察するに、むしろ義元の信任が厚かったとさえ解釈できる。

全軍の先鋒として尾張に入るや朝比奈泰朝とともに鷲津砦を包囲する一方、義元本隊が沓掛城に近づくにあたっては松平元康(のちの徳川家康)と沓掛城に入り、義元の入城を出迎えた。その後、元康は戦線に戻るが、直盛は沓掛城から義元本隊の先鋒を務めることになる。

愛知県豊明市沓掛町東本郷 沓掛城址公園 沓掛城主郭と空堀f:id:shinsaku1234t501:20211021211113j:imageその直盛や松井宗信(遠江二俣城主)らが織田軍との戦闘で戦死するのである。果たして直盛や宗信らが本陣の救援に向かう途中で乱戦に巻き込まれた末の討死なのか、はたまた義元の戦死直後と仮定すれば、敵討ちの意味で自ら突撃を敢行した可能性も考えられる。戦場付近に踏みとどまって織田軍と一戦交えることで義元に殉じたかのようにも見受けられる。ともかく最期は負傷した挙句の自刃だったと伝わる。

誠に皮肉だが、永禄3年5月19日、松平元康や朝比奈泰朝らが大高城周辺にいたことで生き延びた歴史的結果に対して、途中から義元本隊の親衛隊を命じられた直盛は、まさに桶狭間の当事者となってしまった。親衛隊を命じられた事実そのものは、義元の信任が厚かった可能性を物語るが、そのために戦死する羽目になったと言える。一方で、今川義元に殉じた戦働きだった目線で考えると忠義心すら見えてくる。f:id:shinsaku1234t501:20230226101546p:image