そして、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いは双方睨み合いの状態にあった。6月15日、滝川一益・九鬼嘉隆ら羽柴秀吉軍の水軍数十艘3,000の兵が伊勢白子(三重県鈴鹿市白子町)を発し、16日早朝には蟹江沖に姿を見せた。
迎え撃つ織田信雄軍の蟹江城主 佐久間信栄(佐久間信盛長男)は伊勢萱生(三重県四日市市萱生町)に出陣中のため、留守は信栄の叔父 佐久間信辰(佐久間信盛弟)と前田利家らの本家筋とされる前田長定(前田種利嫡男、与十郎、種定)らが守っていた。
ところが、滝川一益に内応した長定が信辰を本丸から追放したため、16日夕刻、蟹江城はあっけなく羽柴軍に占拠された。なおもその余勢を駆った一益・嘉隆らは尾張海部郡にある大野城(愛知県愛西市大野町)の山口重政(織田信雄家臣)を包囲した。
一方、蟹江落城の報に接した織田信雄は梶川秀盛・小坂雄吉らを援軍として大野城に派遣する一方、自身もその日のうちに2,000の兵を率いて伊勢長島城(三重県桑名市長島町)を発した。
また、尾張清洲城(愛知県清須市清洲古城)の徳川家康も入浴中の浴衣のまま馬を駆け、17日早朝には戸田村(愛知県名古屋市中川区戸田)に陣を構えた。
同日、織田長益が率いる形で待機していた徳川水軍が尾張知多郡大野湊(愛知県常滑市大野町)を出航する。向井正綱・戸田忠次・間宮信高らである。また、同じ知多郡師崎(愛知県知多郡南知多町)からは千賀重親・小浜景隆らも駆けつける。新設の徳川水軍とも言うべき船団は、九鬼水軍が引き潮で動きが取れなくなった隙を見て、その進路を塞いだ。双方、死力を尽くした船上での鉄砲による銃撃戦となった。満潮になりやっと動き出した九鬼嘉隆の乗船を深追いした間宮信高はこの銃撃戦で戦死する。しかし、織田信雄に至っては九鬼水軍の大船を拿捕し、甲板上で白兵戦を演じた末に滝川家の馬印を奪い取ったという。
一方、陸では家康の家臣 大須賀康高・榊原康政らの迎撃を受けた滝川一益が船に戻ることもできず、一部の兵とともに蟹江城に、九鬼嘉隆は下市場城(愛知県海部郡蟹江町)に逃げ込んだ。
18日、家康と信雄は蟹江城・下市場城・前田城(愛知県名古屋市中川区前田西町)をそれぞれ包囲した。うち、酒井忠次・大須賀康高・榊原康政・岡部長盛・山口重政らの攻撃を受けた下市場城は18日夜、城主 前田長俊(前田長定弟)が戦死する形で落城した。23日には信雄や家康家臣 石川数正・安部信勝らに包囲されていた前田城も開城し、家康が入城する。
愛知県名古屋市中川区前田西町1丁目 岡部山速念寺 前田古城趾碑肝心の蟹江城では籠城戦が続く。信雄の家臣 水野忠重は、大手門の戦いで兜に数本の矢が刺さり、うち1本は兜を貫通して頭に矢傷が残ったほどである。また、その長男 水野勝成は滝川一忠(滝川一益長男)と槍の一騎討ちを演じ、双方ともに負傷した。
そんな中、不思議なことに羽柴秀吉は近江や伊勢のあたりを移動しながらも一切参戦の動きを見せていない。