侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その5

ところが、ここで事態が急転する。

翌年の永禄3年(1560)、これほど見事に今川家の橋頭堡を築いた功労者とも言うべき山口教継・教吉父子が今川義元から出頭を命じられ、駿府にて切腹に追い込まれたのである。先に紹介した戸部政直の例とあまりにも酷似する点が多いため、山口教継と戸部政直を同一人物とする説もあるが、本稿ではあえて別人物として紹介した。

愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋 鳴海城跡公園 鳴海城土塁f:id:shinsaku1234t501:20210718194550j:image粛清の理由は不明だが、山口父子に決定的な落ち度でもあったのか、もしくはこれだけの辣腕に義元が危機感を感じたのか、単純に利用価値が無くなったと判断されたのか。また、その数ヶ月後に起こった桶狭間合戦時の布陣から遡って考えると、周辺に今川家の譜代家臣を配置せんがために邪魔者になった可能性も考えられる。その一例として山口教吉没後の鳴海城の守将は、義元の信任厚い岡部元信になっている。

なんと言っても、織田家を裏切ったのだから、今川家にとっても裏切られる不安はついて回る。ならば取り除く必要がある。

愛知県名古屋市緑区鳴海町城 天神社(鳴海城二ノ丸址) 鳴海城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20210508202638j:image一方、信長としても織田家を裏切っただけでなく、尾張に今川軍を引き入れた山口父子は絶対に許せない。とすれば、戸部政直の時と同様、内通をでっち上げて粛清されるように仕向けたのであろうか。

実は、先に述べた戸部政直と山口父子の粛清劇は、永禄3年(1560)に起こる桶狭間合戦に関して極めて重要なことを意味している。というのは、従来より取り沙汰されている今川義元の大軍出兵の理由については、京都を目指したとする上洛説と尾張出兵説に分かれる。

この尾張出兵説を前提とするならば、せっかく打ち込んだ楔としての戸部政直や山口父子を粛清したことで、現在の名古屋市南区一帯が一時的に更地になってしまった。この状況下での今川義元の動きは、現在の豊明市から名古屋市緑区・南区一帯の現地視察と地固めのための大軍出兵、そして織田家に対する示威行動(デモンストレーション)と考えることができるのである。その証拠に山口父子の粛清と桶狭間合戦のタイミングが同じ永禄3年(1560)であることから察するに、粛清から数ヶ月の中で尾張に出兵したことが結果的に桶狭間合戦になったということを物語っている。