侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

今川粛清録 その10

そこで、驚天動地の事件が発生する。

直平・直宗・直盛と嫡流が当主になることで成り立っていた井伊家であるが、直盛には男子ができなかった。そこで、直宗の弟直満の嫡子 亀之丞(のちの井伊直親)を直盛の養嗣子にする話が持ち上がった。ところが、直満との不仲が囁かれる井伊家の家老 小野和泉守政直をはじめ少なからずの反対論者がいた。

そんな折、甲斐武田家が遠江に侵攻してきたため、直平は直満・直義兄弟に軍備を命じた。小野政直はこの動きを「直満・直義兄弟が武田軍と内通して軍備を整えている」と、今川義元に讒言したのである。

こうして、天文13年(1544)12月23日、直満・直義らは出頭命令に応じて駿府に赴き、義元への弁明むなしく殺害されるに至った。さらに、当時9歳だった亀之丞の身さえも危うくなった。そこで、直平や龍泰寺の南渓瑞聞らの手引きで井伊谷から信濃方面に逃した。

ここでも不思議なのは、直平や当主直盛には謀反の嫌疑がかかっていないのである。今川家からすれば井伊家を取り潰す絶好の機会にも関わらずである。あくまでも、直満と直義の処罰だけで済ませているあたり、今川家と井伊家の間にある微妙なバランスが窺える。井伊家が直満・直義らの不行跡とすることで家を守るべく火消しをしたのか、今川家が彼らの処罰だけで井伊家にお咎めなしとしたのか。尤も、今川義元が井伊家の家老 小野政直による監視体制を強化した可能性は大いにあるだろう。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 井殿の塚 井伊直満・直義墓f:id:shinsaku1234t501:20190831021959j:imageとりわけ、兵部少輔直平の人生は壮絶極まりない。敵対してきた今川家に帰属する決断に迫られ、嫡男直宗はその今川家のために戦って討死、次男(もしくは三男)の彦次郎直満・その弟平次郎直義を謀反の罪で殺害され、五男の直元には先立たれ、娘は今川義元の人質に差し出されたのち義元の側室となり、さらに義元の養妹として関口親永に下げ渡されたとされる。なおも、嫡孫の直盛は桶狭間合戦で今川軍として戦死、当主となったもう一人の孫直親も謀反の罪で殺害されたのである。最晩年は直親の遺児 虎松(のちの井伊直政)の後見を務めるさなか、直平本人も永禄6年(1563)、合戦の最中に毒殺とも、戦死とも伝わる。子や孫の非業の死を見届け続けた人生である。

静岡県浜松市北区引佐町川名 井伊直平f:id:shinsaku1234t501:20201122183202j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226101257p:image