侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

【緊急投稿】 今こそ佐藤信寛を知る

文化12年(1816)12月27日、長州藩下級武士 佐藤源右衛門の長男として生まれながら、幼名を三郎と称す。父源右衛門の実弟には坪井九右衛門の名がある。幕末の長州藩に興味がある人ならば坪井九右衛門と聞くだけで感じるものがあるだろう。なぜなら、坪井から中川宇右衛門・椋梨藤太へと受け継がれる保守的政治思想は一派を成して俗論派と呼ばれ、一時は長州藩の政治体制を担ったのである。

これに真っ向から対立する改革路線は正義派と呼ばれる。村田清風から周布政之助へと受け継がれるだけでなく、そこに桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作吉田松陰の関係者が連なる勢力である。ちなみに自勢力を「正義派」、対抗勢力を侮蔑の意味を含めて「俗論派」と名づけたのは高杉晋作だと言われる。幕末の長州藩は、この2つの政治勢力が交互に台頭と失脚を繰り返し、自滅への道を歩んだ末に、討幕という方針で妥結したと言っていい。

その坪井九右衛門を伯父に持つ佐藤三郎あらため寛作は、長州藩校明倫館で朱子学山県太華に学び、江戸にも遊学した。彼から15歳ほど年下の吉田松陰も同じような経歴を持つことから察するに、まず長州藩士としてはスタンダードな学歴なのかもしれない。

その後、長州藩において郡奉行筆者役を務めたという。薩摩藩西郷隆盛島津斉彬に見い出される以前に、郡方書役助であったことを考えると、主に民政面における現場監督的な立場だったと思われる。のちには御蔵元本締役・大検使役も歴任したが、2つの政治勢力とは一定の距離を置いた位置で順調に藩吏の道を歩んだのであろうか。彼の名は幕末の血生臭い局面には出てこない。

その寛作は江戸遊学中に清水赤城(大橋訥庵の父)に就いて長沼流兵学を学んだ時期がある。おそらく、この学問が吉田松陰との交流のきっかけとなったのだろう。松陰の吉田家と言えば、長州藩の山鹿流兵学師範の家柄である。早くから山鹿流兵学を修めた松陰は、長沼流兵学をも修めようとしたのだろうか。15歳で山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学の講義を受け、のち佐藤寛作から清水赤城の著書「兵要録」を与えられた。歴史上の寛作と松陰の邂逅はこれぐらいしか見当たらない。しかし、これがきっかけで桂小五郎井上聞多伊藤俊輔らとの親交が始まったのであろう。伯父の坪井九右衛門が松陰門下と対立軸にあるはずなのにである。

いつのタイミングで信寛と改名したのかは定かではないが、第二次長州征伐では高杉晋作海軍総督・前原一誠参謀心得の元で小倉口に出征している。その功があったればこそ、明治になると浜田県権知事・島根県令などを歴任するに至ったと、曾孫の佐藤栄作は語っている。

特に島根県令を務めていた明治9年(1876)には内務省地理寮からの問い合わせに答える形で竹島問題に携わることになる。また、同時期に萩の乱が勃発するや、隣りの島根県に漂着した前原一誠・奥平謙輔らを包囲し、ついには逮捕した。前原一誠と言えば松陰門下であり、小倉口の戦線を同じくした過去もある。信寛は前原らの主張を汲んで助命嘆願を約束したが、政府は萩でおこなわれた簡易裁判で結審し、即日処刑に及んだ。信寛が一県令の限界を感じた瞬間かもしれない。

明治11年(1878)に官を辞してのち花鳥風月の余生を送ったのも、激動の長州藩を見届けた人物の行き着いた境地かもしれない。明治33年(1900)2月15日に没す。

ちなみに、彼の長男信彦山口県議会議員を務めた漢学者、次男の包武は鼓家の養子となり陸軍少尉となる。三男の太郎も陸軍大将で男爵井上光の養子となり、陸軍少佐となる。

さらに、信寛から見て曾孫には海軍中将でジュネーブやロンドンの軍縮会議に出席した市郎・信寛自身が名付け親となり、のち伯父である岸信政の婿養子となった信介・佐藤本家の婿養子となった栄作が登場する。

その次世代では岸信介の長女洋子氏が毎日新聞政治部記者 安倍晋太郎と結婚・佐藤栄作の次男信二通商産業大臣運輸大臣を歴任した。

そして、信寛の来孫に当たるのが安倍晋太郎の次男で凶弾に倒れた晋三・三男の信夫氏は岸信和の養子となり、現防衛大臣の職にある。

さて、故安倍晋三の名前については下記のようなエピソードがある。「晋」については父晋太郎の通字であると同時に、長州藩高杉晋作に所以があることは有名である。ならば、次男に生まれながら、なぜ「次」・「二」ではなく、「三」なのか。祖父にあたる岸信介は字画などを考えて「三」にしたと言う。一方で、筆者は先祖の佐藤信寛が長男でありながら三郎と名付けられたことに着目する。

なお、佐藤家は源義経の忠臣 佐藤忠信の末裔と伝わり、且つ晋三の安倍家は蝦夷安倍宗任の末裔である。そして、晋三が何よりも強く意識していたのは郷土の偉人 吉田松陰高杉晋作ら長州人へのこだわりであった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226100427p:image