侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

初めての会津 後編

そして、車座の話が終わり席に戻った時、私は大変なことに気づいた。隣りにいた義父は親戚の数人にお酌をした以外、ずっと独りで膳を囲んでいたのである。祖母や義母・私の家内が旧知の方々のお酌や場の仕切りに余念なく動き回り、私が無邪気に車座に溶け込んだ一方、義父は手酌で独り静かに料理をつまんでいたのである。

平成11年(1999)、私が結婚の話を切り出した際、「私自身が結婚を申し出た時、気持ち良く承諾してもらった恩がある。だから、自分の子供の時も快く承諾しようと決めていた」と、にこやかな義父から聞かされたことがある。私にとっては緊張が一気にほぐれるほど有難い話であった。ひょっとしたら義父は若かりし頃に自身の結婚を許してくれた十三回忌の主を偲んで酒を飲んでいたのかもしれない。

福島県会津若松市追手町1丁目 鶴ヶ城城址公園 若松城廊下橋f:id:shinsaku1234t501:20240412014008j:imageしかし、鹿児島出身の義父から結婚の話を切り出された時、奥会津の祖父に全く抵抗や躊躇は無かったのだろうか。明治維新から100年を迎えた昭和40年代のことである。100年近く経っても会津戦争の因縁にこだわるのはナンセンスだという考え方は当然あっただろうと思う。

一方で、薩摩・土佐・美濃大垣などが主力となって会津戦争が繰り広げられた事実が厳然とある。その後も会津出身者が明治政府で活躍するには数々の苦難を伴ったとされる。義父の場合、100年の時間が経過しているとはいえ、まさに鹿児島(勝者側)の若者が娘との結婚を申し出てきた場面で、会津(敗者側)の祖父が「とにかくめでたい」と掛け値なしで認めたとする想定は考えにくい。「よりにもよって鹿児島人か」という本音があってもおかしくはない。

ましてや、前編で紹介した通り、平成の世になっても会津戦争当時の敵か、味方かによって雲行きが怪しくなるような雰囲気を、私は実体験してしまった。善し悪しではなく、それが土地に根付いた人々の思いなのである。

明治10年(1877)、西南戦争に従軍した旧会津士族が会津戦争の雪辱を果たしたことで、薩摩に対する恨みは和らいだとする解釈が巷にあるが、そのおかげで鹿児島出身の義父は受け入れられたのだろうか。そう考えれば法事の席で多くを語らず独り膳を囲んでいる義父の姿は、会津人の集まりの中で、そっと存在している薩摩人のようにも映った。その点、私は若さもあるが、会津との歴史的わだかまりがないからこそ、八方美人に振る舞えたのかもしれない。

例えば、薩摩男と会津女の結婚と言えば、明治16年(1883)の大山巌と山川捨松の例が有名である。が、これも旧薩摩藩と旧会津藩の氷解の象徴というよりも、むしろ大山家からすれば薩摩・会津双方の親戚づきあいが途絶えていったのが真相らしい。

東京都千代田区九段南2丁目 九段坂公園 大山巌f:id:shinsaku1234t501:20240412013724j:image桜島の麓から集団就職で上京した義父は、西郷隆盛像を見るため、真っ先に上野恩賜公園に行ったと言う。そして、のちに会津から集団就職で上京した義母と知り合うことになる。お互いが不案内な東京の地で生きていくには、それぞれが郷里である鹿児島と会津を心の拠り所とした部分はあったに違いない。

この夫婦にも歴史は生きていたはずである。そして、見守った祖父にも歴史を超越した決断があったような気がする。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240203211602p:image