侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

相応院を巡る人々 前編

徳川家康の側室、のちの相応院は石清水八幡宮の祠官 志水宗清の娘である。名は於亀と伝わる。

天正19年(1591)、最初に嫁いだ竹腰正時との間に万丸(のちの竹腰正信)を設ける。正時という人物については別名もあり、はっきりとしない部分が多いが、斎藤道三に仕えた美濃大垣城主の家系とも伝わり、道三敗死後に山城へ移り住んだと考えられる。

正時との死別後、於亀は豊臣秀吉馬廻で播磨龍野城主 石川光元の側室となり、太郎八(のちの石川光忠)を生むが、光元の正室(浅井井頼女)の嫉妬で城を逐われ、実家に戻る。

文禄3年(1594)、於亀21歳の時、徳川家康の側室となるや、翌年には伏見にて家康の八男にあたる仙千代を生むことになる。家康は股肱の臣、平岩親吉に子がないことを不憫に思い、仙千代を養嗣子として与えたとされる。(平岩親吉の養嗣子については長沢松平松千代の異説あり)しかし、仙千代は慶長5年(1600年)2月、大坂にてわずか6歳で夭折する。その直後、家康は会津上杉征伐から関ヶ原合戦へと正念場の時期を迎える。そして、同年11月28日に於亀の方は千千代丸(後の尾張徳川義直)を生む。なお、この誕生地についても伏見の清涼院という説もあれば、大坂城西ノ丸という説もある。

大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目 坂松山高岳院一心寺 平岩仙千代墓f:id:shinsaku1234t501:20230903224723p:imageさて、於亀の方のそれまでの人生は薄幸の印象を受けるが、この千千代丸誕生によって大きく変わっていくことになる。

文禄6年(1597)、於亀に従って徳川家康の小姓となっていた長男の竹腰正信は甲斐で5,000石を賜る。慶長6年(1601)、正信は甲斐府中6万3,000石の城主として入城してきた平岩親吉と出会うことになる。さらに、2年後の慶長8年(1603)、五郎太丸と改名していた千千代丸(のちの尾張徳川義直)は、甲斐府中25万石に封ぜられる。実際の五郎太丸はまだ幼少ゆえ駿府城の家康の元で養育されていた。ために甲府に赴くことはなかったが、奇しくもこの地で於亀の方ゆかりの人物が繋がった。異父兄弟である家臣の竹腰正信と主君となる五郎太丸、故仙千代の養父であり、やはり五郎太丸の傅役の平岩親吉、於亀の方はこの縁をどう見たのだろう。

さらに、慶長12年(1607)、五郎太丸改め徳川義利が尾張清洲47万2,344石に転じると、平岩親吉も同国犬山12万3,000石として義利の御附家老を務めることになった。竹腰正信もまた尾張に5,000石を加増されて1万石となり、義利の後見役に任じられる。さらに慶長16年(1611)には従五位下山城守に叙任され、同年12月30日に平岩親吉が没すると、若干22歳にして尾張名古屋藩執政を命じられる。

のち、慶長17年(1612)に2代将軍 徳川秀忠に砲術の腕前を披露した褒美として1万石を賜り、さらには元和5年(1619)に尾張徳川義直から御附家老として1万石を加増されたことで美濃今尾3万石(岐阜県海津市平田町)を領するに至る。

愛知県名古屋市千種区 平和公園 宝亀山公安院相応寺墓地 竹腰正信墓f:id:shinsaku1234t501:20230903232749p:imagef:id:shinsaku1234t501:20230903231122p:image