元弘3年・正慶2年(1333)5月22日、鎌倉幕府第14代執権を務めた北条得宗家の当主 高時(北条貞時三男)が自刃した。後醍醐天皇による鎌倉倒幕の動きに呼応した上野国の御家人 新田義貞が鎌倉に侵攻したためである。この日を以って鎌倉幕府は終焉を迎えた。
神奈川県鎌倉市小町三丁目 高時腹切りやぐらその際、高時の御内人 諏訪三郎盛高は高時の弟である北条泰家(北条貞時四男)の命を受けて鎌倉を脱出する。本領である信濃諏訪に逃れたのである。この時、諏訪社の氏人で構成された「諏訪神党」と呼ばれる一団に一人の人物が匿われた。北条泰家の命で諏訪盛高が連れ帰った高時の次男(勝長寿丸・勝寿丸・亀寿丸・全嘉丸)、のちの北条時行である。
なぜ、高時の遺児が匿われるに至ったか、これには重要な伏線がある。元来、信濃国は源平合戦の頃、源頼朝の脅威となった木曽義仲を輩出した土地である。義仲の勢力を削ぐ目的もあって、頼朝は北条時政に諏訪一帯の懐柔を命じた。これが諏訪氏と北条氏のそもそもの縁となる。
また、頼朝にとってはもう一方の脅威である武田信義を甲斐国に閉じ込めておくためにも信濃は掌握しておきたい要所でもあった。即ち関東御分国といわれる直轄領にした所以である。頼朝はその上で、比企能員を信濃守護職に任じたが、建仁3年(1203)に殺害されると、時行の祖にあたる北条義時が取って代わった。
さらに、建保元年(1213)2月、小県郡小泉荘(長野県上田市)を本拠地とする泉親衡が源頼家の遺児を擁立して北条義時を殺害せんと画策するが、露見して合戦となり敗走した。頼朝のみならず、北条氏にとっても直轄領にしなければならない土地だったのではなかろうか。その後、守護職は重時(義時三男)・義宗(重時嫡男)・久時(義宗嫡男)・基時(北条時兼嫡男)・仲時(基時嫡男)と続き、鎌倉時代を通じて信濃国は北条氏の領国であり続けた。
こうした長きにわたる北条氏の統治の中で、諏訪氏は北条得宗家の御内人(得宗被官)となっていた。もとは足利氏や新田氏と同じく御家人だが、より北条得宗家に接近し、その家政にまで関わる位置にあったと言っていい。
さて、新しい政治体制が始まれば、当然抵抗勢力の声も大きくなる。その一方で旧幕府の中心的立場の人物を排除しながら建武新政がおこなわれていく。
建武2年(1335)7月14日、相模二郎を名乗る時行は諏訪頼重(諏訪盛高と同一人物と比定される)や滋野氏などの諏訪神党だけでなく、蘆名盛員・三浦時継・時明らにも擁立されてついに挙兵する。この挙兵を察知した朝廷は、時行軍が木曽方面から京都に攻め上ることを想定して備えに入った。そのため、成良親王(後醍醐天皇皇子)を奉じる鎌倉将軍府は関東に取り残される形となった。
「凶徒木曾路を經て尾張黑田へ打出べきか。しからば早早に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり、かかる所に凶徒はや一國を相從へ、鎌倉へ責上る間、澁川刑部・岩松兵部、武蔵安顯原にをいて終に合戰に及といへども、逆徒手しげくかかりしかば、澁川刑部・岩松兵部兩人自害す。」(梅松論)
総勢約5万騎とも言われる時行の軍勢は、小笠原貞宗(信濃守護)と戦う一方で、信濃国衙を襲撃したのを皮切りに、上野国の蕪川で新田四郎、武蔵に入ると女影原(埼玉県日高市)で渋川義季・岩松経家ら、小手指原(埼玉県所沢市)でも今川範満、武蔵府中では小山秀朝と、各地で鎌倉軍を撃破し、悉く自害に追い込んだ。