侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その14

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 中野家歴代当主墓f:id:shinsaku1234t501:20220227081727j:imageさて、永禄11年(1568)、籠城戦に限界を感じていた連龍は、松居郷八郎と名乗る懇意の人物を仲介として氏真からの和睦に応じた。こうして、氏真の娘と婚約する運びとなった亡き前妻の子 辰之助を伴い駿府に挨拶に赴く。その祝宴で待っていたのは父子ともに切腹という処断だった。

余談だが、後室 於田鶴の懐妊を願う連龍が東漸寺の鬼子母神堂に祈願をした。すると、於田鶴にとって初めての子 義広が誕生した。これを祝って「義広」と墨書した大凧を揚げたことが、今に伝わる「浜松まつり」の起源とされるが、実は大正時代の創作とも言われている。

以上を見る限り、「改正三河風土記」・「井伊家伝記」ともに、連龍が引間城に籠城したのちに、駿府で没するというくだりではほぼ一致している。

ただ、連龍が井伊直平の家老という設定は「井伊家伝記」以外に見られない。この設定を信じれば、引間城は井伊直平の属城だったと解釈できる。井伊家に反旗を翻した連龍に対して、氏真の命を受けた寄手の中野・新野もまた井伊家の一族である。氏真はこの寄手に救援の軍勢を出してはいるものの、基本的な構図はあくまでも井伊家の内紛ということになる。

また、没年に関しても「改正三河風土記」が永禄8年なのに対して、「井伊家伝記」は永禄11年と相違がある。

これについても「武徳編年集成」によれば、駿府の小路の戦いとして紹介されている。時は永禄8年(1565)12月20日駿府館二ノ丸の飯尾屋敷が100人の兵に急襲され、連龍・於田鶴夫妻は2、30名の手勢で防戦したという。於田鶴も薙刀で奮戦するが、衆寡敵せず夫婦して首を取られ、二ノ丸大手門に梟首されたとしている。

これが「武家事紀」では、永禄8年(1565)12月20日駿府の飯尾屋敷を急襲したのが氏真の命を受けた新野親矩となっている。親矩はその場で戦死し、連龍は切腹したとされる。

その他にも12月20日には相違ないが、没年を永禄7年(1564)とする説もある。

没年、登場人物、最期の状況など詳細は諸説あるが、飯尾連龍が駿府今川氏真により謀殺された点はおよそ共通している。

静岡県浜松市中区成子町 林寶山東漸寺 飯尾連龍墓f:id:shinsaku1234t501:20220227075911j:imageなお、連龍の姉婿である松井宗親もまた連龍との連座を疑われ、永禄8年(1565)にやはり駿府で殺害されている。桶狭間合戦で松井宗信が戦死したことで、遠江二俣城主を継いだ人物である。

今川粛清録 その13

但し、飯尾家の系図には致実という別人が実在する。遠江浜松荘の代官だった飯尾長連には賢連と為清の2人の子があり、賢連の嫡孫が連龍にあたる。一方、為清の嫡孫には致実の名がある。決め手は長連・賢連・乗連・連龍が代々の通称 善四郎と通字の「連」を名乗っている事実である。さらに、政純という別名についても、浜名氏流の井伊政純という井伊谷在住(井伊家家臣か?)の別人が存在していたらしい。連龍・致実・政純はそれぞれ別人の可能性がある。

そもそも、この遠江曳馬城代の飯尾氏は三善家を祖とすると言われる。鎌倉幕府の初代問注所執事として源頼朝に仕えた三善入道康信と同族になる。その後、室町幕府の奉行衆を務めたとか、吉良家の譜代家臣から今川家に転身したという説もある。どちらにしても、名門の出自や紆余曲折を経て今川家に仕えた経緯を考えると、前述の井伊家同様にどこか今川家の忠実な家臣になりきれない要素があったのかもしれない。

静岡県浜松市中区元城町 元城東照宮(引間城址f:id:shinsaku1234t501:20220227082252j:imageまた、松平家康自身がお忍びとはいえ、まだ敵地でしかない浜松まで来るだろうか。しかも当時の東漸寺は引間城内にある。百歩譲って家康本人ではなく家臣ならまだ分かる。さらに引間城攻撃には朝比奈備中守泰能も参戦したとあるが、当の泰能は弘治3年(1557)8月20日に病没している。子の泰朝も同じく備中守を受領しているので、泰朝と考えるべきであろう。明らかな誤記である。瀬名親隆・氏範父子らについても、事績が全く分からない。これらの点を諸々考えると、「改正三河風土記」の史料性を疑う必要がある。

なお、飯尾連龍にまつわる話は、先に紹介した「改正三河風土記」と「井伊家伝記」の内容が合わさったような感がある。

次に「井伊家伝記」の内容を紹介する。永禄6年(1563)、井伊直平今川氏真の命で天野左衛門尉(遠江八城山城主)の討伐を命じられる。他でもない。天野が今川家への反旗を翻したからである。途上、有玉旗屋の宿(浜松市東区有玉南町)まで兵を進めた直平の元に、直平の家老職を務める飯尾連龍が後室の於田鶴(鵜殿長持女)を伴い訪ねてきた。連龍なのか、於田鶴なのかは分からないが、どちらかに勧められるままに茶を飲み干した直平は、直後に身体の自由を失い落馬して没する。天野左衛門尉や於田鶴らの謀略に加担した飯尾連龍による直平毒殺劇である。

こうして連龍は井伊家から独立した引間城主となって籠城し、翌年には今川家に対しても反逆の狼煙を上げた。怒る氏真は直平を亡くした直後の井伊家に連龍の討伐を命じる。亡き井伊直盛から井伊谷城を任されていた一族の中野直由や井伊家の姻戚にあたる新野親矩らが出陣するが、永禄8年(1565)、引間城天馬橋の戦いで両名ともに戦死する。これにより、直盛・直親・直平・中野直由と次々と城主格を失い続けた井伊家は、苦肉の策として次郎法師直虎を擁立することになる。

今川粛清録 その12

遠州忿劇による粛清はさらに続く。

今川氏真の家臣で、遠江引間城(引馬城・曳馬城)の城代である飯尾豊前守連龍(善四郎・致実・乗龍・政純)にも不穏な動きが生じた。

「改正三河風土記」によると、永禄6年(1563)、今川氏真三河牛久保城(愛知県豊川市)を本陣とし佐脇砦・八幡砦に展開して、松平家康(のちの徳川家康)家臣 本多信俊の守る一宮砦(愛知県豊川市)を包囲した戦いがある。その際、飯尾致実(連龍)は氏真から後方にある三河吉田城(愛知県豊橋市)の後詰めを命じられた。致実は引間城を出陣したものの、病と称して引き返す途中、なぜか新居・白須賀付近に放火したという。

ここに及んで氏真は命に背いた致実の討伐を命じる。新野親矩・之矩兄弟率いる3,000の兵が押し寄せるが、迎え撃つ致実は矢砲(炮烙玉)を放って応戦し、今川方の新野親矩は鉄砲によって戦死したとされる。そんな折、甲斐の武田信玄の動きが活発化し始めた。氏真としてはひとまず致実と和睦するしかなかった。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 新野親矩f:id:shinsaku1234t501:20220227082808j:imageしかし、永禄7年(1564)4月7日、致実は松平家康と引間城内にある東漸寺にて何かしらの会談をしたと伝わる。その直後、家康は今川家の保護が厚い浜名郡鷲津(静岡県湖西市)の本興寺に乱入する。こうした家康の跳梁は当然、今川氏真の連龍に対する疑念をさらに掻き立てた。

こうして、氏真は朝比奈秀盛(のちの朝比奈信置)や瀬名親隆・氏範父子らに引間城攻撃を命じる。この籠城戦のさなか、致実は起請文を付けた矢文を放ち「何者かの讒言による偽情報であって、今川家に対して二心はない。」と潔白を主張する。これが功を奏したのか、城の囲みが解かれた。致実はその挨拶のため駿府に赴く。永禄8年(1565)12月20日駿府に出頭した致実は伏兵に囲まれ謀殺された。

静岡県浜松市中区元城町 元城町東照宮 曳馬城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20220227062304j:image「又今川氏眞ハ去年三州發向佐脇八幡に在陣せし時飯尾豊前守致實が徳川殿へ内通し病と稱し居城遠州引間へ引返すとて其道すがら新井平須賀邊の驛舎に放火して歸りし事を大に憤り氏眞駿州へ歸府の後早速に引間を故致實を生捕て其虚實を鞠問せんとて新野右馬助親矩其弟式部少輔之規を大將とし三千餘人を差添へ引間の城へさし向短兵急に攻させしに豊前守さる古つハものなれば少しも恐れず矢炮を飛し防戰す寄手の大將新野右馬助鉄炮にあたりてうたれ死す依て散々に敗れ駿州へ迯歸れば氏眞益怒りかさねて朝比奈備中守泰能瀬名陸奥守親隆其子中務大輔氏範朝比奈兵太夫秀盛等に大勢を差添攻かこみ晝夜を分たず攻しかども致實防戰の術を盡し寄手の手負死人ばかりにて城落べしとも見へず其時致實矢文を射出し其讒者の爲に無實の罪を蒙り遺恨せん方なし一時の急難をのぞかんが爲防戰するといへども全く異心を抱くにあらず早く讒者の虚實を糺明有て恩免を蒙らバ彌ゝ二心なく忠勤すべしとしたゝめ起請文に添て贈りけれバ討手の輩是を駿府に贈り氏眞に見せしむ氏眞爰に於て討手の輩呼返し致實が罪を免し此後ハ懇意に恩義を施しけれバ致實も忝くや思ひけん禮謝の爲に駿府へ來りけるを氏眞謀をめぐらし壮士を伏置不慮に殺害せり」(改正三河風土記

今川粛清録 その11

さて、天文13年(1544)12月23日、井伊直平の次男(もしくは三男)の直満・その弟の直義らが今川義元への謀反の疑いで殺害されたことはすでに述べた。この時、直満の嫡男 亀之丞(当時9歳)にも追及の手が及ぶ可能性があった。井伊直平と龍泰寺の南渓瑞聞らは密かに亀之丞を井伊谷から脱出させ、信濃方面に逃した。

その亀之丞が井伊直親として井伊谷に戻ってきたのは、弘治元年(1555)のことである。さらに、従兄にあたる井伊直盛が永禄3年(1560)の桶狭間合戦で戦死すると、その家督を継いで井伊家当主となる。

しかし、井伊直平の外孫とされる築山御前の夫 松平家康(のちの徳川家康)が三河から遠江侵入のタイミングを窺い始める。駿河の今川、三河の松平に挟まれた「遠州忿劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる遠江地域の混乱である。

「これより先、今川義元、信長と戦つて敗死す。その子氏真、暗弱にして、嬖臣三浦義鎮に任ず。国人服せず。我が徳川公、嘗て今川氏に属す。亦た今川氏を去つて織田氏に属す。兵力、日に強し。この時、信虎猶ほ在り。信濃に流寓す。人をして信玄に言はしめて曰く、「駿河乱る。将に徳川氏の有つ所とならんとす。汝宜しく先づこれを取るべし」と。」(日本外史

甲斐追放後、今川家に流寓していた時期がある武田信虎でさえ、遠江の混乱が徳川家に有利と見るや、息子の信玄に駿河への侵攻を促す始末である。このタイミングで井伊直親が今川家に見切りをつけ、密かに家康と気脈を通じるとすれば、それもまた理の当然と言えよう。しかし、この疑惑を今川氏真に讒言したのは井伊家代々の家老職にある小野政次(道好)である。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 小野政次一族供養墓(中央より左寄りの尖った墓石、その左右は同時に処刑された子の幼泡童子・幼手童子の墓石)f:id:shinsaku1234t501:20220117011711j:image父親とされる小野和泉守政直が井伊直満・直義兄弟の謀反の嫌疑を今川義元に通報したのと同じく、その嫡男と言われる但馬守政次がこれまた直満の実子である井伊直親を謀反の嫌疑で今川氏真に通報したのである。

これを受けて、氏真がまさに直親追討を決断しようとしたところ、故井伊直盛正室 祐春尼の父である新野左馬助親矩が必死の嘆願を試みた。結果、追討を免れた代わりに直親自身が駿府へ出頭して氏真に申し開きをする運びとなった。こうして直親は駿府に向かう途上、朝比奈泰朝の襲撃を受け、わずかな家臣ともども掛川にて惨殺される。これについては、拙ブログ「十九首塚」でも述べているので、併せてご参照いただきたい。

申し開きのための手薄な道中を襲撃したとあっては、もはや謀殺でしかない。また、襲撃した朝比奈泰朝桶狭間合戦の折、先代当主の井伊直盛とともに鷲津砦の攻撃で一緒だった縁を考えると皮肉な話と言わざるを得ない。

静岡県浜松市北区細江町中川 井伊直親f:id:shinsaku1234t501:20220117012058j:image

今川粛清録 その10

そこで、驚天動地の事件が発生する。

直平・直宗・直盛と嫡流が当主になることで成り立っていた井伊家であるが、直盛には男子ができなかった。そこで、直宗の弟直満の嫡子 亀之丞(のちの井伊直親)を直盛の養嗣子にする話が持ち上がった。ところが、直満との不仲が囁かれる井伊家の家老 小野和泉守政直をはじめ少なからずの反対論者がいた。

そんな折、甲斐武田家が遠江に侵攻してきたため、直平は直満・直義兄弟に軍備を命じた。小野政直はこの動きを「直満・直義兄弟が武田軍と内通して軍備を整えている」と、今川義元に讒言したのである。

こうして、天文13年(1544)12月23日、直満・直義らは出頭命令に応じて駿府に赴き、義元への弁明むなしく殺害されるに至った。さらに、当時9歳だった亀之丞の身さえも危うくなった。そこで、直平や龍泰寺の南渓瑞聞らの手引きで井伊谷から信濃方面に逃した。

ここでも不思議なのは、直平や当主直盛には謀反の嫌疑がかかっていないのである。今川家からすれば井伊家を取り潰す絶好の機会にも関わらずである。あくまでも、直満と直義の処罰だけで済ませているあたり、今川家と井伊家の間にある微妙なバランスが窺える。井伊家が直満・直義らの不行跡とすることで家を守るべく火消しをしたのか、今川家が彼らの処罰だけで井伊家にお咎めなしとしたのか。尤も、今川義元が井伊家の家老 小野政直による監視体制を強化した可能性は大いにあるだろう。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 井殿の塚 井伊直満・直義墓f:id:shinsaku1234t501:20190831021959j:imageとりわけ、兵部少輔直平の人生は壮絶極まりない。敵対してきた今川家に帰属する決断に迫られ、嫡男直宗はその今川家のために戦って討死、次男(もしくは三男)の彦次郎直満・その弟平次郎直義を謀反の罪で殺害され、五男の直元には先立たれ、娘は今川義元の人質に差し出されたのち義元の側室となり、さらに義元の養妹として関口親永に下げ渡されたのである。なおも、嫡孫の直盛は桶狭間合戦で今川軍として戦死、当主となったもう一人の孫直親も謀反の罪で殺害されたのである。最晩年は直親の遺児 虎松(のちの井伊直政)の後見を務めるさなか、直平本人も永禄6年(1563)、合戦の最中に毒殺とも、戦死とも伝わる。子や孫の非業の死を見届け続けた人生である。

静岡県浜松市北区引佐町川名 井伊直平f:id:shinsaku1234t501:20201122183202j:image

今川粛清録 その9

また、直平の娘は今川家に人質として差し出されたのちに義元の側室となったとも伝わり、さらに義元の養妹として今川一族の関口親永に嫁いだ。これも父直平が今川家との和睦に及んで人質として泣く泣く差し出したと見るのか、忠誠を誓うがゆえに自発的に差し出したのか、解釈は分かれる。

ただ今川家が本当に井伊家を嫌っているならば、女性とはいえ側近くに置こうとは考えないのではなかろうか。ましてや義元との間に子でも成そうものなら、名門今川家と井伊家は血縁関係を成し、ひいては井伊家が一挙に今川家の外戚となってしまう。真に井伊家を危険視するならば、外戚という関係は避けるべきであろう。単純に両家を対立軸で見るのではなく、逆説で捉えた場合、今川家による懐柔と井伊家による追従の可能性が垣間見える。

その後、義元の養妹の格で今川家の一門に嫁いだ半生についても、権力に翻弄されたような悲劇的要素はつきまとうが、一概に粗略な扱いとも言えない。なぜなら、関口親永は今川家の重臣 瀬名氏貞の次男にして、関口氏録の養子となって家督を継いだ身である。なお、関口氏は今川国氏の次男 常氏が関口次郎と称したことに発祥するれっきとした今川家の支流であり、室町幕府の奉公衆を世襲する名門の家柄でもある。義元としては、むしろ側室の再嫁先として申し分のない家を選択したと思われる。

もっとも、この駿河持船城主 関口親永も今川氏真の代になると駿府屋形町の自邸にて自害を命じられる。その際、妻である井伊直平の娘も自害したとされる。桶狭間合戦から2年を経た永禄5年(1562)のことである。この親永夫妻の娘は松平元康(のちの徳川家康)の正室として名高い築山御前である。桶狭間の敗戦後、駿府に戻ることなく三河岡崎城に割拠し始めた元康の行動を裏切りと断じた氏真が、ひいてはその岳父親永にまで疑念を抱いた結果である。織田信長に対する父義元の仇討ちがままならない氏真の屈折した気持ちの行き先がまるで家臣に向けられたようにも見える粛清劇である。

今川家と井伊家の関係に戻す。井伊直平の次男(もしくは三男)とも、養子とも伝わる龍潭寺二世住持 南渓瑞聞は、桶狭間合戦ののち「安骨大導師」として義元の葬儀一切を取り仕切った。南渓が遠江のみならず駿河にも聞こえた名僧であると同時に、義元の葬儀を託すに値する存在だったのだろう。これとて井伊家と今川家が真に敵対関係ならば成立しない話であろう。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍潭寺 南渓瑞聞墓(右端の無縫塔)f:id:shinsaku1234t501:20201122183822j:image

今川粛清録 その8

ならば、力で勝る今川家がいっそのこと井伊家を根絶やしにすればいいのではないかと考えがちだが、そこは古くから土着して遠江北部一円に一族が分布している名族である。ちなみに井伊家には赤佐・奥山・中野・井手・井平・上野・貫名などの分家がある。奥山家や中野家は、実際に「おんな城主 直虎」にも主要キャストとして登場した。全くの余談だが、貫名家は日蓮宗の宗祖 日蓮を輩出した家と言われる。

何よりも井伊家を敵に回すことは、遠江北部の山峡部でゲリラ戦を覚悟しなければならない。斯波家を追放することで遠江守護職を奪還した今川家としては、武田の甲斐・北条の相模・小領主や土豪が乱立する三河など隣国の動静に気遣う一方で、自領となった遠江でわざわざ掃討戦を演じるべきではない。徒らに戦に持ち込めば、かえって同調勢力の挙兵を招くリスクがある。また、内乱の鎮圧にてこずろうものなら、信濃経由で武田が乱入する、北条に駿河を突かれる、などつけ入る隙を与えることになる。ここは力ずくで滅ぼすよりも手なずけるほうが得策とでも考えたのだろうか。

なお、大河ドラマの影響もあって今川家が権力をかさに井伊家を常に圧迫し続けたと思いがちだが、これにはいささか検証の余地がある。

例えば、井伊直平の嫡男直宗は天文年間(1532〜1555)に三河原城の攻撃中に戦死したとされる。また、直宗の嫡男直盛も、かの桶狭間合戦で戦死した。これらの事実を今川義元から信用されていない井伊家が捨て駒にされた証拠と見ることもできるが、当時の武士にとっては先陣や殿(しんがり)など難関の攻撃を命じられるのは、むしろ武士の誉れとも解釈できる。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍潭寺 井伊直盛f:id:shinsaku1234t501:20211021211011j:image特に直盛の場合、桶狭間合戦において今川軍の先鋒を任されていた事実から察するに、むしろ義元の信任が厚かったとさえ解釈できる。

全軍の先鋒として尾張に入るや朝比奈泰朝とともに鷲津砦を包囲する一方、義元本隊が沓掛城に近づくにあたっては松平元康(のちの徳川家康)と沓掛城に入り、義元の入城を出迎えた。その後、元康は戦線に戻るが、直盛は沓掛城から義元本隊の先鋒を務めることになる。

愛知県豊明市沓掛町東本郷 沓掛城址公園 沓掛城主郭と空堀f:id:shinsaku1234t501:20211021211113j:imageその直盛や松井宗信(遠江二俣城主)らが織田軍との戦闘で戦死するのである。果たして直盛や宗信らが本陣の救援に向かう途中で乱戦に巻き込まれた末の討死なのか、はたまた義元の戦死直後と仮定すれば、敵討ちの意味で自ら突撃を敢行した可能性も考えられる。戦場付近に踏みとどまって織田軍と一戦交えることで義元に殉じたかのようにも見受けられる。ともかく最期は負傷した挙句の自刃だったと伝わる。

誠に皮肉だが、永禄3年5月19日、松平元康や朝比奈泰朝らが大高城周辺にいたことで生き延びた歴史的結果に対して、途中から義元本隊の親衛隊を命じられた直盛は、まさに桶狭間の当事者となってしまった。親衛隊を命じられた事実そのものは、義元の信任が厚かった可能性を物語るが、そのために戦死する羽目になったと言える。一方で、今川義元に殉じた戦働きだった目線で考えると忠義心すら見えてくる。