侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その9

また、直平の娘は今川家に人質として差し出されたのちに義元の側室となったとも伝わり、さらに義元の養妹として今川一族の関口親永に嫁いだ。これも父直平が今川家との和睦に及んで人質として泣く泣く差し出したと見るのか、忠誠を誓うがゆえに自発的に差し出したのか、解釈は分かれる。

ただ今川家が本当に井伊家を嫌っているならば、女性とはいえ側近くに置こうとは考えないのではなかろうか。ましてや義元との間に子でも成そうものなら、名門今川家と井伊家は血縁関係を成し、ひいては井伊家が一挙に今川家の外戚となってしまう。真に井伊家を危険視するならば、外戚という関係は避けるべきであろう。単純に両家を対立軸で見るのではなく、逆説で捉えた場合、今川家による懐柔と井伊家による追従の可能性が垣間見える。

その後、義元の養妹の格で今川家の一門に嫁いだ半生についても、権力に翻弄されたような悲劇的要素はつきまとうが、一概に粗略な扱いとも言えない。なぜなら、関口親永は今川家の重臣 瀬名氏貞の次男にして、関口氏録の養子となって家督を継いだ身である。なお、関口氏は今川国氏の次男 常氏が関口次郎と称したことに発祥するれっきとした今川家の支流であり、室町幕府の奉公衆を世襲する名門の家柄でもある。義元としては、むしろ側室の再嫁先として申し分のない家を選択したと思われる。

もっとも、この駿河持船城主 関口親永も今川氏真の代になると駿府屋形町の自邸にて自害を命じられる。その際、妻である井伊直平の娘も自害したとされる。桶狭間合戦から2年を経た永禄5年(1562)のことである。この親永夫妻の娘は松平元康(のちの徳川家康)の正室として名高い築山御前である。桶狭間の敗戦後、駿府に戻ることなく三河岡崎城に割拠し始めた元康の行動を裏切りと断じた氏真が、ひいてはその岳父親永にまで疑念を抱いた結果である。織田信長に対する父義元の仇討ちがままならない氏真の屈折した気持ちの行き先がまるで家臣に向けられたようにも見える粛清劇である。

今川家と井伊家の関係に戻す。井伊直平の次男(もしくは三男)とも、養子とも伝わる龍潭寺二世住持 南渓瑞聞は、桶狭間合戦ののち「安骨大導師」として義元の葬儀一切を取り仕切った。南渓が遠江のみならず駿河にも聞こえた名僧であると同時に、義元の葬儀を託すに値する存在だったのだろう。これとて井伊家と今川家が真に敵対関係ならば成立しない話であろう。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍潭寺 南渓瑞聞墓(右端の無縫塔)f:id:shinsaku1234t501:20201122183822j:image

今川粛清録 その8

ならば、力で勝る今川家がいっそのこと井伊家を根絶やしにすればいいのではないかと考えがちだが、そこは古くから土着して遠江北部一円に一族が分布している名族である。ちなみに井伊家には赤佐・奥山・中野・井手・井平・上野・貫名などの分家がある。奥山家や中野家は、実際に「おんな城主 直虎」にも主要キャストとして登場した。全くの余談だが、貫名家は日蓮宗の宗祖 日蓮を輩出した家と言われる。

何よりも井伊家を敵に回すことは、遠江北部の山峡部でゲリラ戦を覚悟しなければならない。斯波家を追放することで遠江守護職を奪還した今川家としては、武田の甲斐・北条の相模・小領主や土豪が乱立する三河など隣国の動静に気遣う一方で、自領となった遠江でわざわざ掃討戦を演じるべきではない。徒らに戦に持ち込めば、かえって同調勢力の挙兵を招くリスクがある。また、内乱の鎮圧にてこずろうものなら、信濃経由で武田が乱入する、北条に駿河を突かれる、などつけ入る隙を与えることになる。ここは力ずくで滅ぼすよりも手なずけるほうが得策とでも考えたのだろうか。

なお、大河ドラマの影響もあって今川家が権力をかさに井伊家を常に圧迫し続けたと思いがちだが、これにはいささか検証の余地がある。

例えば、井伊直平の嫡男直宗は天文年間(1532〜1555)に三河原城の攻撃中に戦死したとされる。また、直宗の嫡男直盛も、かの桶狭間合戦で戦死した。これらの事実を今川義元から信用されていない井伊家が捨て駒にされた証拠と見ることもできるが、当時の武士にとっては先陣や殿(しんがり)など難関の攻撃を命じられるのは、むしろ武士の誉れとも解釈できる。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍潭寺 井伊直盛f:id:shinsaku1234t501:20211021211011j:image特に直盛の場合、桶狭間合戦において今川軍の先鋒を任されていた事実から察するに、むしろ義元の信任が厚かったとさえ解釈できる。

全軍の先鋒として尾張に入るや朝比奈泰朝とともに鷲津砦を包囲する一方、義元本隊が沓掛城に近づくにあたっては松平元康(のちの徳川家康)と沓掛城に入り、義元の入城を出迎えた。その後、元康は戦線に戻るが、直盛は沓掛城から義元本隊の先鋒を務めることになる。

愛知県豊明市沓掛町東本郷 沓掛城址公園 沓掛城主郭と空堀f:id:shinsaku1234t501:20211021211113j:imageその直盛や松井宗信(遠江二俣城主)らが織田軍との戦闘で戦死するのである。果たして直盛や宗信らが本陣の救援に向かう途中で乱戦に巻き込まれた末の討死なのか、はたまた義元の戦死直後と仮定すれば、敵討ちの意味で自ら突撃を敢行した可能性も考えられる。戦場付近に踏みとどまって織田軍と一戦交えることで義元に殉じたかのようにも見受けられる。ともかく最期は負傷した挙句の自刃だったと伝わる。

誠に皮肉だが、永禄3年5月19日、松平元康や朝比奈泰朝らが大高城周辺にいたことで生き延びた歴史的結果に対して、途中から義元本隊の親衛隊を命じられた直盛は、まさに桶狭間の当事者となってしまった。親衛隊を命じられた事実そのものは、義元の信任が厚かった可能性を物語るが、そのために戦死する羽目になったと言える。一方で、今川義元に殉じた戦働きだった目線で考えると忠義心すら見えてくる。

今川粛清録 その7

平成29年NHK大河ドラマおんな城主 直虎」の第1話で、その後の井伊家の暗雲を予兆するかのように描かれたのが、井伊直満・直義兄弟の死である。

井伊家は藤原北家、もしくは南家の血筋と伝えられ、平安時代から遠江に土着した家柄である。南北朝時代の延元2年(1337)、当主井伊行直が南朝方に属して北朝方の今川範国と三方ヶ原で戦ったのが、そもそもの因縁の始まりとされる。折しも、伊勢大湊(三重県伊勢市)から陸奥国府(福島県伊達市)へ向かう途中で漂着した宗良親王後醍醐天皇皇子)を井伊谷城に迎えたが、暦応3年(1340)には北朝方の高師泰仁木義長らの攻撃を受けて三岳城・大平城が落城するに及んで降伏する。また、応安4年(1371)には今川貞世のもとで九州に従軍していることから、この頃までには今川家に属していたことが窺える。

静岡県浜松市引佐町井伊谷 井伊谷宮 宗良親王f:id:shinsaku1234t501:20190812201719j:imageその後、応永12年(1405)に斯波義重が遠江守護職に任じられると、井伊家はこれに臣属する。しかし、今川家からすれば範氏・範国・貞世・仲秋・泰範と代々世襲してきた遠江守護職を奪われ、以降斯波氏が世襲していることは我慢ならない。

永正10年(1513)、井伊家当主の直平は当時の遠江守護職にあった斯波義達を奉じて、駿河守護職今川氏親と戦って大敗を喫した。これを機に今川家の侵攻が強まり、永正14年(1517)に斯波義達が追放されるに及んで、直平は今川家に帰属する。

井伊家が単純に仁木・今川・斯波と一貫して代々の遠江守護職に仕えてきただけとも言えるのだが、こと今川家については南北朝に分かれて敵対した過去を持ち、斯波氏の被官として今川家と戦った気まずい過去もある。今川家からすれば、心から信頼できない、いや許し難い存在だったかもしれない。一方、平安時代から遠江に根を下ろしてきた井伊家からすれば、南北朝争乱の功により乗り込んできた新参の今川家は不愉快な存在だった可能性がある。

そんな経緯を踏まえて、井伊直平重臣の小野兵庫助重正に今川家への取次役を命じるが、おそらく頻繁なやり取りの中で重正が逆に今川家の意向を井伊家に伝える立場となったようである。井伊家を利するために今川家に出入りしていたはずが、今川家のために井伊家を軌道修正し、時には監視することもあったと考えられる。この小野家が絡むことで、今川家と井伊家の力関係がより一層ややこしくなったのは事実である。

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字城山 井伊谷城f:id:shinsaku1234t501:20210915032748j:image

今川粛清録 その6

実際、義元は沓掛城(愛知県豊明市)から西南方向に向かう途上で戦死することになる。ルートから察するに、鳴海城の南を通過して大高城を目指した可能性が高い一方、西北にあたる名古屋市南区方面を目指していないことも明白である。もし義元が上洛を急ぐならば、西北に進路を取って一刻も早く熱田に肉迫するほうが信長への直接的な圧力となるはずである。

しかし、義元にとってはせっかく手に入れたはずの名古屋市南区一帯の戸部・山口父子を立て続けに粛清したことで直接向かうことを忌み嫌い、ひとまず安全地帯である鳴海城か、大高城を目指したのかもしれない。

一方、信長からすれば名古屋市南区の戸部や山口といった障壁が無くなったことで鳴海城・大高城への視界が開けたことになる。実際の桶狭間合戦時に、信長は熱田から鎌倉街道を丹下砦、次いで善照寺砦とスムーズに着陣している。ただ、戸部城や桜中村城の周辺をいささか迂回するようにして古鳴海を経由していることに意味があるのだろうか。

愛知県名古屋市緑区鳴海町砦 砦公園 善照寺砦址f:id:shinsaku1234t501:20210815212510j:image信長としては、ここに重大な問題が発生する。ひとたび義元本隊が鳴海城、もしくは大高城に入城してしまえば、連携するこの両城を無勢の織田軍が攻めるのは至難の業となる。ましてや、大高城の沖には義元に呼応すべく服部友貞率いる服部党が停泊している。案の定、これと連絡を果たした今川軍が船で北上でもしようものなら、熱田をはじめ尾張沿岸部が蹂躙される恐れもある。

愛知県名古屋市緑区大高町城山 大高城跡公園 大高城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20210815212551j:image大高城本丸址f:id:shinsaku1234t501:20210815212635j:imageならば、なんとしても沓掛城から鳴海城に至るまでのどこかで野戦に持ち込むしかない。そのためには鷲津砦の攻略に当たっている朝比奈泰朝・丸根砦の攻略に当たっている松平元康らが反転して信長に襲いかかるようなことがあっては困る。

また、大高城主の鵜殿長照・鳴海城主の岡部元信らが義元への援軍として出撃したら挟撃される恐れもある。大高城や鳴海城の動きを封じるためには、玉砕覚悟で鷲津・丸根両砦を囮にして、その一帯の今川軍を釘付けにしておく必要がある。そう考えると、信長の胸中では「桶狭間」という戦場は偶然の地ではなく、むしろ計算された場所だった可能性さえある。

以上、戸部政直や山口教継・教吉父子の粛清を語ってきたが、別の視点から考察してみたい。信長の父、織田信秀今川義元と幾度となく戦ったが、そのいずれも戦場は三河であった。岡崎近郊の小豆坂や安祥城(現在の安城市)などである。つまり信秀は義元に尾張領内に侵攻されるような戦さはしなかったのである。それが、先にも述べた通り、天文18年(1549年)11月の安祥城合戦ののち戸部政直の肝煎りで人質交換がおこなわれたのは名古屋市南区笠覆寺であり、山口父子が今川家に寝返ったことで名古屋市南区から緑区一帯が今川家の勢力下になったことを併せ考えると、信秀の晩年から信長に代替わりする頃は織田家に一時的な弱体化の時期が到来していたことを物語っている。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦とは、今川義元三河どころか尾張領内に入り込み、初めて信長と直接対峙した戦さである。そして、尾張国内にここまで見事に今川家の版図を築いたのは戸部や山口父子の抜群の功があったればこそと言えよう。しかし、それでも粛清されたのである。

今川粛清録 その5

ところが、ここで事態が急転する。

翌年の永禄3年(1560)、これほど見事に今川家の橋頭堡を築いた功労者とも言うべき山口教継・教吉父子が今川義元から出頭を命じられ、駿府にて切腹に追い込まれたのである。先に紹介した戸部政直の例とあまりにも酷似する点が多いため、山口教継と戸部政直を同一人物とする説もあるが、本稿ではあえて別人物として紹介した。

愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋 鳴海城跡公園 鳴海城土塁f:id:shinsaku1234t501:20210718194550j:image粛清の理由は不明だが、山口父子に決定的な落ち度でもあったのか、もしくはこれだけの辣腕に義元が危機感を感じたのか、単純に利用価値が無くなったと判断されたのか。また、その数ヶ月後に起こった桶狭間合戦時の布陣から遡って考えると、周辺に今川家の譜代家臣を配置せんがために邪魔者になった可能性も考えられる。その一例として山口教吉没後の鳴海城の守将は、義元の信任厚い岡部元信になっている。

なんと言っても、織田家を裏切ったのだから、今川家にとっても裏切られる不安はついて回る。ならば取り除く必要がある。

愛知県名古屋市緑区鳴海町城 天神社(鳴海城二ノ丸址) 鳴海城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20210508202638j:image一方、信長としても織田家を裏切っただけでなく、尾張に今川軍を引き入れた山口父子は絶対に許せない。とすれば、戸部政直の時と同様、内通をでっち上げて粛清されるように仕向けたのであろうか。

実は、先に述べた戸部政直と山口父子の粛清劇は、永禄3年(1560)に起こる桶狭間合戦に関して極めて重要なことを意味している。というのは、従来より取り沙汰されている今川義元の大軍出兵の理由については、京都を目指したとする上洛説と尾張出兵説に分かれる。

この尾張出兵説を前提とするならば、せっかく打ち込んだ楔としての戸部政直や山口父子を粛清したことで、現在の名古屋市南区一帯が一時的に更地になってしまった。この状況下での今川義元の動きは、現在の豊明市から名古屋市緑区・南区一帯の現地視察と地固めのための大軍出兵、そして織田家に対する示威行動(デモンストレーション)と考えることができるのである。その証拠に山口父子の粛清と桶狭間合戦のタイミングが同じ永禄3年(1560)であることから察するに、粛清から数ヶ月の中で尾張に出兵したことが結果的に桶狭間合戦になったということを物語っている。

今川粛清録 その4

戸部政直と同地域で、しかも同様の疑いを受けて謎の死を遂げたのが、山口教継・教吉父子である。そもそも山口氏は元々周防大内氏の一族であり、尾張に土着したとされる。

左馬助教継は教房(尾張桜中村城主)の嫡男として誕生し、織田信秀に仕えた。今川義元相手の三河小豆坂合戦でも戦功があり、信秀の信任が厚い人物であった。のち鳴海城主に任じられたが、信秀の死をきっかけにして今川義元に寝返った。天文21年(1552)、鳴海城を嫡子九郎二郎教吉に任せると、笠寺に砦を築いて葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏ら今川勢を引き入れ、自身は桜中村城に籠城した。

「鳴海の城主山口左馬助・子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿御目を懸けられ候処、御遷化候へば程なく謀叛を企て、駿河衆を引入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入置き、一、笠寺へ取手・要害を構へ、かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。一、中村の在所を拵、父山口左馬助楯籠。」(信長公記

愛知県名古屋市南区桜田町2丁目 桜公園 桜中村城址f:id:shinsaku1234t501:20190811214844j:image4月17日、織田信長は兵800を以って那古野城を出陣し、鳴海に急行する。対する山口教吉は兵1,500で鳴海城を出て赤塚に陣取る。この赤塚合戦は織田軍に討死30騎と記されるだけで、勝敗を決するほどではなかった。

なおも父の教継は、永禄2年(1559)、水野大膳の大高城と近藤景春の沓掛城を調略で手に入れる。今の名古屋市南区緑区から豊明市に至る一帯を今川家の版図に塗り替えたのである。それだけではなく、知多半島の根元部分に今川軍の楔が打ち込まれた形となる。信長にしてみれば尾張国を南北で分断される危険性がある。早速、大高城に対して丸根・鷲津・正光寺・向山・氷上の各砦を、鳴海城には善照寺・丹下・中島の三砦を築いて監視体制を怠らない。

愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下 丹下砦址f:id:shinsaku1234t501:20210613215053j:image「これより先、鳴海の城将山口某、畔いて今川に附く。また大高・沓懸二城を取り、更に村木に城く。信長、村木を攻め下し、また笠寺城を攻む。城将戸部某、驍勇にして下すべからず。信長、兵を収めて帰る。戸部、書を善くするを以て、侍史をしてこれを学ばしむ。期年にして得たり。乃ち戸部の織田氏に通ずるの書を贋作し、森可成をして偽つて賈人となり、齎して駿河に赴き、これを義元に上らしむ。義元怒り、戸部を召してこれを殺し、また山口父子を殺す。義元、既に駿河遠江三河を定め、将に大挙して尾張を攻めんとす。信長、諸城塁を修め、佐久間大学をして鷲津を守り、飯尾定宗をして丸根を守らしめて、大高・笠寺の兵と数ゝ戦つて、決せず。」(日本外史

今川粛清録 その3

裏を返せば、信長としては、このような器量人が尾張領内に屹立しているのは甚だ目障りである。父の代は仕えていたのに、自分の代になった途端に今川に奔ったことからしても、信長にとっては不愉快極まりない存在でもある。しかも知略のみならず、目の前を横切る者を一刀の元に切り捨てるほどの剛の者でもある。ここは力攻めするよりも一計を案じる。

まず右筆に命じて数年に亘って政直の筆跡を学ばせ、のち信長に内通する旨の書状を偽造したのである。それを鍔商人に扮した森可成駿府に運び、今川義元が入手するよう仕組んだとされる。この密書を見た義元は案の定、政直の直筆と信じるあまり内通を真実と受け取った。

こうして、政直は駿府への出頭命令を受けて向かう途中、三河吉田(愛知県豊橋市)付近にて処刑されるのである。駿府に辿り着くまでもなく問答無用で処刑されるあたり、義元の怒りのほどが窺い知れる。弘治3年(1557)5月1日のことと伝わる。

これによって戸部城は廃城となり、その3年後におこなわれる桶狭間合戦で信長の視界に残るのが大高城と鳴海城のみになるのは、偶然とはいえ戦略上重要なことである。

愛知県豊橋市柱九番町 橋良共同墓地 戸部政直墓f:id:shinsaku1234t501:20200330201711j:imageなお、同じ名古屋市南区にある丹八山公園の碑によれば赤松円心を祖とするが、その出自は定かではない。

愛知県名古屋市南区笠寺町迫間 丹八山公園 笠寺城主戸部新左衛門政直公碑f:id:shinsaku1234t501:20200330201737j:imageまた、「蜂須賀小六」や「前田利家」・「服部半蔵」などの名著で知られる作家 戸部新十郎氏(故人)は子孫である。さらに、漫画家の尼子騒兵衛氏は政直の子孫と友人関係にあることから「忍たま乱太郎」に戸部新左エ門なるキャラクターを登場させている。