侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

今川粛清録 その13

但し、飯尾家の系図には致実という別人が実在する。遠江浜松荘の代官だった飯尾長連には賢連と為清の2人の子があり、賢連の嫡孫が連龍にあたる。一方、為清の嫡孫には致実の名がある。決め手は長連・賢連・乗連・連龍が代々の通称 善四郎と通字の「連」を名乗っている事実である。さらに、政純という別名についても、浜名氏流の井伊政純という井伊谷在住(井伊家家臣か?)の別人が存在していたらしい。連龍・致実・政純はそれぞれ別人の可能性がある。

そもそも、この遠江曳馬城代の飯尾氏は三善家を祖とすると言われる。鎌倉幕府の初代問注所執事として源頼朝に仕えた三善入道康信と同族になる。その後、室町幕府の奉行衆を務めたとか、吉良家の譜代家臣から今川家に転身したという説もある。どちらにしても、名門の出自や紆余曲折を経て今川家に仕えた経緯を考えると、前述の井伊家同様にどこか今川家の忠実な家臣になりきれない要素があったのかもしれない。

静岡県浜松市中区元城町 元城東照宮(引間城址f:id:shinsaku1234t501:20220227082252j:imageまた、松平家康自身がお忍びとはいえ、まだ敵地でしかない浜松まで来るだろうか。しかも当時の東漸寺は引間城内にある。百歩譲って家康本人ではなく家臣ならまだ分かる。さらに引間城攻撃には朝比奈備中守泰能も参戦したとあるが、当の泰能は弘治3年(1557)8月20日に病没している。子の泰朝も同じく備中守を受領しているので、泰朝と考えるべきであろう。明らかな誤記である。瀬名親隆・氏範父子らについても、事績が全く分からない。これらの点を諸々考えると、「改正三河風土記」の史料性を疑う必要がある。

なお、飯尾連龍にまつわる話は、先に紹介した「改正三河風土記」と「井伊家伝記」の内容が合わさったような感がある。

次に「井伊家伝記」の内容を紹介する。永禄6年(1563)、井伊直平今川氏真の命で天野左衛門尉(遠江八城山城主)の討伐を命じられる。他でもない。天野が今川家への反旗を翻したからである。途上、有玉旗屋の宿(浜松市東区有玉南町)まで兵を進めた直平の元に、直平の家老職を務める飯尾連龍が後室の於田鶴(鵜殿長持女)を伴い訪ねてきた。連龍なのか、於田鶴なのかは分からないが、どちらかに勧められるままに茶を飲み干した直平は、直後に身体の自由を失い落馬して没する。天野左衛門尉や於田鶴らの謀略に加担した飯尾連龍による直平毒殺劇である。

こうして連龍は井伊家から独立した引間城主となって籠城し、翌年には今川家に対しても反逆の狼煙を上げた。怒る氏真は直平を亡くした直後の井伊家に連龍の討伐を命じる。亡き井伊直盛から井伊谷城を任されていた一族の中野直由や井伊家の姻戚にあたる新野親矩らが出陣するが、永禄8年(1565)、引間城天馬橋の戦いで両名ともに戦死する。これにより、直盛・直親・直平・中野直由と次々と城主格を失い続けた井伊家は、苦肉の策として次郎法師直虎を擁立することになる。