侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

中先代の乱 その4

時行にとって不倶戴天の敵とはいえ、足利尊氏もこの頃、建武政権に不満を抱いていた一人と言えよう。だからこそ、彼は時行を駆逐した後の鎌倉に居座って、京の後醍醐天皇と一線を画す結果となる。再三の帰京命令を無視された後醍醐天皇は、建武2年(1335)11月22日、足利尊氏・直義兄弟討伐の綸旨を発給する。さらに同26日には足利尊氏の全ての官職を解く。

その後も各地を転々とした時行は、南北朝時代に入ると南朝方に属した。延元2年・建武4年(1338)12月25日、北畠顕家の麾下に属して足利軍の斯波家長を駆逐し、2度目の鎌倉を奪還したこともあった。さらにその余勢を駆って、翌年5月22日の和泉堺浦石津の戦い(大阪府堺市)に臨むが、顕家や南部師行らが戦死すると敗走する。

大阪府堺市西区浜寺石津町中 源顯家公 南部師行公 殉忠遺跡供養塔f:id:shinsaku1234t501:20230128202658j:image延元3年・暦応元年(1338)、時行は懐良親王宗良親王・義良親王北畠親房らとともに伊勢大湊を発し東国を目指して出航するが、台風で遭難したため、散り散りとなる。

三重県伊勢市大湊町 義良親王御乗船地碑f:id:shinsaku1234t501:20230128200128j:image時行がどこに漂着したかは定かではないが、興国元年・暦応3年(1340)6月24日、遠江井伊谷城にある宗良親王に呼応する形で北条時行と諏訪頼継(諏訪頼重孫)らが信濃伊那郡にある大徳王寺城(長野県伊那市)で挙兵した。信濃守護 小笠原貞宗との間で4ヶ月にわたる籠城戦を演じたが、10月23日に大徳王寺城は落城した。時行は更に潜伏し、諏訪頼継は諏訪に敗走した。

よくよく考えれば、時行の人生は「足利憎し」の念に凝り固まっていたと言える。ただひたすらに足利氏を恨むからこそ南朝方に属したのだろうが、そもそもその南朝勢力こそ鎌倉幕府を滅亡させた原動力である。後醍醐天皇新田義貞、いずれも鎌倉幕府の仇敵とも言うべき存在である。ひょっとしたら、新田義貞鎌倉幕府を滅ぼした時に、足利尊氏の三男 千寿王(のちの足利義詮)を奉じていたことで鎌倉幕府を滅亡に追いやった名目上の敵を足利氏に求めたのかもしれない。

そんな彼の飽くなき執念は3度目の鎌倉奪還に繋がる。正平6年・観応2年(1351)、足利尊氏はある戦略的な意図を以って南朝に降伏した。正平一統である。観応の擾乱で敵対している弟の直義を孤立させるための一策であった。変な現象ではあるが、尊氏と時行が同じ南朝陣営になったのである。f:id:shinsaku1234t501:20230226095827p:image

中先代の乱 その3

8月9日、足利軍の先鋒 安保光泰は遠江橋本(静岡県湖西市)に陣取る時行軍を撃破した。

同12日、遠江佐夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)付近で始まった合戦は仁木頼章・義長兄弟、細川和氏・頼春兄弟といった足利軍先鋒の奮闘もあり、またしても時行軍が敗北した。この戦いで時行軍の名越式部大輔は今川頼国と戦って討死した。

同14日の駿河国府での戦いでは、時行軍の尾張次郎が自害、塩田陸奥八郎・諏訪次郎が捕虜となる。同日の清見関の戦いでは千葉二郎左衛門尉らが足利軍に降伏する。

同17日、鎌倉将軍府に仕えていた三浦時明を大将とする時行軍は箱根で戦うが利あらず、清久山城守が捕虜となる。

翌日の相模川合戦において結果的には足利軍の相模川渡河を許すことになるが、足利軍に属す今川頼国が射殺され、元は得宗御内人であった小笠原七郎父子や二階堂行脩・行登らも戦死する。

こうして敗戦に次ぐ敗戦の末、8月19日を以ってついに鎌倉は陥落する。ちなみに最初から時行に付き従った諏訪頼重はじめ43人は勝長寿院にて自刃したという。しかも、その全て顔面の皮が剥いであったという。当時の人々は見分けのつかない死骸の中に時行も含まれていると思ったことだろう。

「始め遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山相模川・片瀬・腰越・十間坂、これ等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵ども、あるいは討たれ、あるいは傷を蒙りて、今わづかに三百余騎に成りければ、諏訪三河守を始めとして、むねとの大名四十三人、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して、名を滅亡の跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いで、いづれをそれとも見分けざれば、相模二郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、聞く人哀れを催しけり。」(太平記

神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目 勝長寿院f:id:shinsaku1234t501:20221030221158j:image余談だが、「太平記」では、足利軍を「源氏」と表現し、時行軍を「平家」としている。もちろん、お互いの出自からすれば間違いは無いが、この時代にあっても源平の戦いと解釈されているのは興味深い。

また、7月28日、後醍醐天皇は「信濃国凶徒頼重法師以下の輩追討」の祈禱を命じる綸旨を奈良東大寺に発給した。時行ではなく、諏訪頼重が凶徒の中心人物となっている。北条時行の名が知られていなかった可能性を感じる。f:id:shinsaku1234t501:20230226100114p:image

中先代の乱 その2

7月22日、鎌倉将軍府の執権 足利左馬頭直義(足利尊氏弟)が井手の沢(東京都町田市)で時行軍に直接対決を挑むが、返り討ちに遭い鎌倉に敗走する。鎌倉に戻った直義はやがて来る時行の手に渡るのを恐れるあまり、幽閉中の護良親王後醍醐天皇第三皇子)を殺害の上、撤退したという。

神奈川県鎌倉市二階堂 鎌倉宮 護良親王御土牢f:id:shinsaku1234t501:20221103205823j:image7月25日、時行は父祖代々の地 鎌倉を制するに至ったが、なおも追撃の手を緩めることなく駿河手越河原(静岡県静岡市駿河区手越河原)で直義の急襲に成功する。結果、直義は成良親王や足利千寿王(足利高氏三男)らを伴い、三河矢作宿(愛知県岡崎市)まで敗走した。この地は、承久3年(1221)、直義の遠祖 足利義氏承久の乱の恩賞として三河守護に任じられて以来、代々足利氏の所領である。しかも、その守護所は矢作宿に設置された。直義としては、やっと安全地帯に逃げ込んだような心地だったに違いない。そして、ここから成良親王を京都に送り届けるとともに、兄である足利高氏に敗報を伝えた。

この直義の惨敗を挽回せんとする高氏は後醍醐天皇征夷大将軍・総追捕使への任官を奏上する。しかし、後醍醐天皇は勅許を拒否した。時行軍の勢いも確かに脅威だが、高氏に対する警戒心のほうが強かった証拠である。ここで、高氏を征夷大将軍に補任することで、今度は足利氏による武家政権が始まるリスクを危ぶんでのことだろうか。一方、直義の兵に護衛された成良親王が帰京するや否や、後醍醐天皇征夷大将軍に補任した。よりにもよって高氏が欲していた征夷大将軍の職を我が子に与えたのである。それも、鎌倉から逃げ帰った人物にも関わらずである。高氏に対する嫌がらせなのか、武士よりも皇族・公家を重んじる後醍醐天皇の確固たる方針なのか。

やむなく高氏は独断で京都を進発する。これは高氏が後醍醐天皇と決裂した瞬間を意味する。折しも護良親王の失脚により後盾を失った楠木正成、一族の分裂で弱体化しつつある新田義貞といった武士層の構図に変化が生じている微妙な時期である。北条時行の破竹の勢いに対抗できうるのは武士層の声望を集める足利高氏、しかし征夷大将軍の職を与えてむざむざと虎を野に放つわけにはいかない。苦し紛れの後醍醐天皇は高氏を関東管領に補任し、自身の諱「尊治」より「尊」の一字を与えた。これにより足利高氏あらため足利尊氏となったのである。さらに、北条時行軍との連戦の真っ只中である8月9日、後醍醐天皇足利尊氏を征東将軍に補任する。征夷大将軍を与えられないせめてもの気持ちの表れだろうか。それらが尊氏本人にとってどれほどの名誉として受け止められたかは伝わっていない。

一方、尊氏の軍勢を迎え撃つ準備をしていた時行軍は、8月3日夜、折りからの嵐を避けるために鎌倉の大仏殿に避難するが、建物が倒壊したことで500余人が圧死したと伝わる。士気の低下を恐れた時行は名越式部大輔を大将に任じて西へ出陣させる。f:id:shinsaku1234t501:20230226100222p:image

中先代の乱 その1

元弘3年・正慶2年(1333)5月22日、鎌倉幕府第14代執権を務めた北条得宗家の当主 高時(北条貞時三男)が自刃した。後醍醐天皇による鎌倉倒幕の動きに呼応した上野国御家人 新田義貞が鎌倉に侵攻したためである。この日を以って鎌倉幕府は終焉を迎えた。

神奈川県鎌倉市小町三丁目 高時腹切りやぐらf:id:shinsaku1234t501:20220831221948p:imageその際、高時の御内人 諏訪三郎盛高は高時の弟である北条泰家北条貞時四男)の命を受けて鎌倉を脱出する。本領である信濃諏訪に逃れたのである。この時、諏訪社の氏人で構成された「諏訪神党」と呼ばれる一団に一人の人物が匿われた。北条泰家の命で諏訪盛高が連れ帰った高時の次男(勝長寿丸・勝寿丸・亀寿丸・全嘉丸)、のちの北条時行である。

なぜ、高時の遺児が匿われるに至ったか、これには重要な伏線がある。元来、信濃国源平合戦の頃、源頼朝の脅威となった木曽義仲を輩出した土地である。義仲の勢力を削ぐ目的もあって、頼朝は北条時政に諏訪一帯の懐柔を命じた。これが諏訪氏と北条氏のそもそもの縁となる。

また、頼朝にとってはもう一方の脅威である武田信義甲斐国に閉じ込めておくためにも信濃は掌握しておきたい要所でもあった。即ち関東御分国といわれる直轄領にした所以である。頼朝はその上で、比企能員信濃守護職に任じたが、建仁3年(1203)に殺害されると、時行の祖にあたる北条義時が取って代わった。

さらに、建保元年(1213)2月、小県郡小泉荘(長野県上田市)を本拠地とする泉親衡が源頼家の遺児を擁立して北条義時を殺害せんと画策するが、露見して合戦となり敗走した。頼朝のみならず、北条氏にとっても直轄領にしなければならない土地だったのではなかろうか。その後、守護職は重時(義時三男)・義宗(重時嫡男)・久時(義宗嫡男)・基時(北条時兼嫡男)・仲時(基時嫡男)と続き、鎌倉時代を通じて信濃国は北条氏の領国であり続けた。

こうした長きにわたる北条氏の統治の中で、諏訪氏は北条得宗家の御内人得宗被官)となっていた。もとは足利氏や新田氏と同じく御家人だが、より北条得宗家に接近し、その家政にまで関わる位置にあったと言っていい。

さて、新しい政治体制が始まれば、当然抵抗勢力の声も大きくなる。その一方で旧幕府の中心的立場の人物を排除しながら建武新政がおこなわれていく。

建武2年(1335)7月14日、相模二郎を名乗る時行は諏訪頼重諏訪盛高と同一人物と比定される)や滋野氏などの諏訪神党だけでなく、蘆名盛員・三浦時継・時明らにも擁立されてついに挙兵する。この挙兵を察知した朝廷は、時行軍が木曽方面から京都に攻め上ることを想定して備えに入った。そのため、成良親王後醍醐天皇皇子)を奉じる鎌倉将軍府は関東に取り残される形となった。

凶徒木曾路を經て尾張黑田へ打出べきか。しからば早早に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり、かかる所に凶徒はや一國を相從へ、鎌倉へ責上る間、澁川刑部・岩松兵部、武蔵安顯原にをいて終に合戰に及といへども、逆徒手しげくかかりしかば、澁川刑部・岩松兵部兩人自害す。」(梅松論)

総勢約5万騎とも言われる時行の軍勢は、小笠原貞宗信濃守護)と戦う一方で、信濃国衙を襲撃したのを皮切りに、上野国の蕪川で新田四郎、武蔵に入ると女影原(埼玉県日高市)で渋川義季・岩松経家ら、小手指原(埼玉県所沢市)でも今川範満、武蔵府中では小山秀朝と、各地で鎌倉軍を撃破し、悉く自害に追い込んだ。f:id:shinsaku1234t501:20230226100317p:image

【緊急投稿】 今こそ佐藤信寛を知る

文化12年(1816)12月27日、長州藩下級武士 佐藤源右衛門の長男として生まれながら、幼名を三郎と称す。父源右衛門の実弟には坪井九右衛門の名がある。幕末の長州藩に興味がある人ならば坪井九右衛門と聞くだけで感じるものがあるだろう。なぜなら、坪井から中川宇右衛門・椋梨藤太へと受け継がれる保守的政治思想は一派を成して俗論派と呼ばれ、一時は長州藩の政治体制を担ったのである。

これに真っ向から対立する改革路線は正義派と呼ばれる。村田清風から周布政之助へと受け継がれるだけでなく、そこに桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作吉田松陰の関係者が連なる勢力である。ちなみに自勢力を「正義派」、対抗勢力を侮蔑の意味を含めて「俗論派」と名づけたのは高杉晋作だと言われる。幕末の長州藩は、この2つの政治勢力が交互に台頭と失脚を繰り返し、自滅への道を歩んだ末に、討幕という方針で妥結したと言っていい。

その坪井九右衛門を伯父に持つ佐藤三郎あらため寛作は、長州藩校明倫館で朱子学山県太華に学び、江戸にも遊学した。彼から15歳ほど年下の吉田松陰も同じような経歴を持つことから察するに、まず長州藩士としてはスタンダードな学歴なのかもしれない。

その後、長州藩において郡奉行筆者役を務めたという。薩摩藩西郷隆盛島津斉彬に見い出される以前に、郡方書役助であったことを考えると、主に民政面における現場監督的な立場だったと思われる。のちには御蔵元本締役・大検使役も歴任したが、2つの政治勢力とは一定の距離を置いた位置で順調に藩吏の道を歩んだのであろうか。彼の名は幕末の血生臭い局面には出てこない。

その寛作は江戸遊学中に清水赤城(大橋訥庵の父)に就いて長沼流兵学を学んだ時期がある。おそらく、この学問が吉田松陰との交流のきっかけとなったのだろう。松陰の吉田家と言えば、長州藩の山鹿流兵学師範の家柄である。早くから山鹿流兵学を修めた松陰は、長沼流兵学をも修めようとしたのだろうか。15歳で山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学の講義を受け、のち佐藤寛作から清水赤城の著書「兵要録」を与えられた。歴史上の寛作と松陰の邂逅はこれぐらいしか見当たらない。しかし、これがきっかけで桂小五郎井上聞多伊藤俊輔らとの親交が始まったのであろう。伯父の坪井九右衛門が松陰門下と対立軸にあるはずなのにである。

いつのタイミングで信寛と改名したのかは定かではないが、第二次長州征伐では高杉晋作海軍総督・前原一誠参謀心得の元で小倉口に出征している。その功があったればこそ、明治になると浜田県権知事・島根県令などを歴任するに至ったと、曾孫の佐藤栄作は語っている。

特に島根県令を務めていた明治9年(1876)には内務省地理寮からの問い合わせに答える形で竹島問題に携わることになる。また、同時期に萩の乱が勃発するや、隣りの島根県に漂着した前原一誠・奥平謙輔らを包囲し、ついには逮捕した。前原一誠と言えば松陰門下であり、小倉口の戦線を同じくした過去もある。信寛は前原らの主張を汲んで助命嘆願を約束したが、政府は萩でおこなわれた簡易裁判で結審し、即日処刑に及んだ。信寛が一県令の限界を感じた瞬間かもしれない。

明治11年(1878)に官を辞してのち花鳥風月の余生を送ったのも、激動の長州藩を見届けた人物の行き着いた境地かもしれない。明治33年(1900)2月15日に没す。

ちなみに、彼の長男信彦山口県議会議員を務めた漢学者、次男の包武は鼓家の養子となり陸軍少尉となる。三男の太郎も陸軍大将で男爵井上光の養子となり、陸軍少佐となる。

さらに、信寛から見て曾孫には海軍中将でジュネーブやロンドンの軍縮会議に出席した市郎・信寛自身が名付け親となり、のち伯父である岸信政の婿養子となった信介・佐藤本家の婿養子となった栄作が登場する。

その次世代では岸信介の長女洋子氏が毎日新聞政治部記者 安倍晋太郎と結婚・佐藤栄作の次男信二通商産業大臣運輸大臣を歴任した。

そして、信寛の来孫に当たるのが安倍晋太郎の次男で凶弾に倒れた晋三・三男の信夫氏は岸信和の養子となり、現防衛大臣の職にある。

さて、故安倍晋三の名前については下記のようなエピソードがある。「晋」については父晋太郎の通字であると同時に、長州藩高杉晋作に所以があることは有名である。ならば、次男に生まれながら、なぜ「次」・「二」ではなく、「三」なのか。祖父にあたる岸信介は字画などを考えて「三」にしたと言う。一方で、筆者は先祖の佐藤信寛が長男でありながら三郎と名付けられたことに着目する。

なお、佐藤家は源義経の忠臣 佐藤忠信の末裔と伝わり、且つ晋三の安倍家は蝦夷安倍宗任の末裔である。そして、晋三が何よりも強く意識していたのは郷土の偉人 吉田松陰高杉晋作ら長州人へのこだわりであった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226100427p:image

今川粛清録 その15

こうして、駿河今川家による家臣粛清を数例紹介してきた。その手口だけを見れば、今川義元・氏真父子の卑劣さ、陰湿さが殊更際立つことだろう。しかし、父子を比較すると大きく違う点がある。

義元はこれらの粛清をおこなうことで着実に自家勢力を伸ばし、またその後に起きるかもしれない反乱の芽を積んだとさえ言える。さらには桶狭間で敗死したとはいえ、織田信秀・信長父子との緊張関係の中で尾張にまで勢力を食い込ませた時期があったのである。

これに対して、嫡男の氏真がおこなった粛清は反乱の芽を積むどころか、かえって反乱を連鎖させる結果となった。のちの武田勝頼にも見られる離反の連続である。さらに遠江の混乱に加え、西の松平家、北の武田家の暗躍を誘発した感がある。冒頭でも述べた通り、義元が内紛を最小限に抑えて隣国につけ入る隙を与えなかったことを考えると、氏真の粛清劇は逆効果に作用した可能性が高い。例えば、氏真は桶狭間合戦後に仇敵 織田信長に一矢を報いるような軍事行動を見せなかった。これが家臣団の失望を招いたとする心理的効果は確かにあったかもしれない。弔い合戦のような動きがないということは、井伊直盛や飯尾乗連(連龍の父)らの戦死が軽く扱われたと見られても仕方がないからである。

松平家康にしても桶狭間合戦直後から離反を考えていたかどうかは定かではない。しかし、結果的に織田家と結び、遠江を脅かす存在と化していった心理には、戦国武将としてごく当然の領土拡大志向がある一方で、氏真を見限るだけのプロセスがあったからに他ならない。それだけ桶狭間合戦は意義深く、義元の死は今川家の凋落を早めたと言える。

愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目 桶狭間古戦場公園 今川義元公像f:id:shinsaku1234t501:20220529204059j:imageもちろん、義元と氏真では、時勢や趨勢が違うという意見があるかもしれないが、戦国大名は代替わりすると、少なからず領国の統治が後退するのが常である。織田信長もまずは弟を含め一族との戦いに明け暮れた。家康も一族の離反や一向一揆に悩まされた。伊達政宗毛利元就武田信玄らも、外敵との緊張の中で一族家臣の離反を経験している。そして、氏真が同様の試練を乗り切れなかったのは歴史的事実である。

東京都杉並区今川2丁目 宝珠山観泉禅寺 今川氏累代墓(中央の2基の宝篋印塔のうち、右が氏真、左が氏真正室早川殿、早川殿の左隣の板碑が氏真嫡男の範以)f:id:shinsaku1234t501:20220526194351j:imageなお、昨今の研究において氏真を名君のように見直す向きがあるが、桶狭間合戦を境に次々と敵が暗躍し、味方が混乱する中で粛清劇を繰り返した彼にはおよそ戦略・遠略の類を感じない。家臣に裏切られた悔しさは理解できるとしても、見せしめのためにそれらを潰そうと躍起になればなるほど、当然味方にも被害は出る。そうした苦役は次の離反を生む。

さらにゴタゴタを見守る隣国からすれば、氏真の器量は自ずと知れる。文化人としての側面は一級だとしても、国を護るに値しない人物としての人生を送ることになったのは言うまでもない。ましてやこんにち名君とまで呼ぶことには違和感を感じざるをえない。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226100547p:image

今川粛清録 その14

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 万松山龍譚寺 中野家歴代当主墓f:id:shinsaku1234t501:20220227081727j:imageさて、永禄11年(1568)、籠城戦に限界を感じていた連龍は、松居郷八郎と名乗る懇意の人物を仲介として氏真からの和睦に応じた。こうして、氏真の娘と婚約する運びとなった亡き前妻の子 辰之助を伴い駿府に挨拶に赴く。その祝宴で待っていたのは父子ともに切腹という処断だった。

余談だが、後室 於田鶴の懐妊を願う連龍が東漸寺の鬼子母神堂に祈願をした。すると、於田鶴にとって初めての子 義廣が誕生した。これを祝って「義廣」と墨書した大凧を揚げたことが、今に伝わる「浜松まつり」の起源とされるが、実は大正時代の創作とも言われている。

以上を見る限り、「改正三河風土記」・「井伊家伝記」ともに、連龍が引間城に籠城したのちに、駿府で没するというくだりではほぼ一致している。

ただ、連龍が井伊直平の家老という設定は「井伊家伝記」以外に見られない。この設定を信じれば、引間城は井伊直平の属城だったと解釈できる。井伊家に反旗を翻した連龍に対して、氏真の命を受けた寄手の中野・新野もまた井伊家の一族である。氏真はこの寄手に救援の軍勢を出してはいるものの、基本的な構図はあくまでも井伊家の内紛ということになる。

また、没年に関しても「改正三河風土記」が永禄8年なのに対して、「井伊家伝記」は永禄11年と相違がある。

これについても「武徳編年集成」によれば、駿府の小路の戦いとして紹介されている。時は永禄8年(1565)12月20日駿府館二ノ丸の飯尾屋敷が100人の兵に急襲され、連龍・於田鶴夫妻は2、30名の手勢で防戦したという。於田鶴も薙刀で奮戦するが、衆寡敵せず夫婦して首を取られ、二ノ丸大手門に梟首されたとしている。

これが「武家事紀」では、永禄8年(1565)12月20日駿府の飯尾屋敷を急襲したのが氏真の命を受けた新野親矩となっている。親矩はその場で戦死し、連龍は切腹したとされる。

その他にも12月20日には相違ないが、没年を永禄7年(1564)とする説もある。

没年、登場人物、最期の状況など詳細は諸説あるが、飯尾連龍が駿府今川氏真により謀殺された点はおよそ共通している。

静岡県浜松市中区成子町 林寶山東漸寺 飯尾連龍墓f:id:shinsaku1234t501:20220227075911j:imageなお、連龍の姉婿である松井宗親もまた連龍との連座を疑われ、永禄8年(1565)にやはり駿府で殺害されている。桶狭間合戦で松井宗信が戦死したことで、遠江二俣城主を継いだ人物である。f:id:shinsaku1234t501:20230226100753p:image