侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

小牧長久手戦跡 草井の渡し(愛知県江南市)

愛知県江南市草井

承久3年(1221)、承久の乱に際して鎌倉幕府軍が尾張から美濃に侵攻した。この時、北条泰時率いる幕府軍尾張国一宮こと真清田神社(愛知県一宮市真清田)に布陣する。

6月6日、北条時氏・有時ら率いる幕府軍尾張草井の渡しから木曽川対岸の美濃摩免渡の渡し(岐阜県各務原市前渡東町)への渡河を敢行する。朝廷側の総大将 藤原秀康と摩免渡の守将 三浦胤義・佐々木広綱らは、前夜のうちに近江瀬田を目指して撤退していたが、摩免渡に留まった鏡久綱は、押し寄せる北条時氏・北条有時・大江佐房・大江信房・阿曽沼親綱・小鹿嶋公成・波多野経朝・三善康知・安保実光ら幕府軍を迎え撃ち、多勢に無勢の中で自害した。こうして、北条泰時三浦義村らはまさに草井の渡しから摩免戸に渡り、京都への進軍を果たすことになる。

時は変わり、永禄6年(1563)4月、小牧山城を発した織田信長は美濃に侵攻した。信長率いる兵5,700に対し、美濃新加納に布陣する斎藤龍興の兵は3,500と劣勢だった。しかし、新加納に迫った信長勢に突如襲いかかったのは斎藤龍興の家臣、竹中半兵衛重治率いる伏兵であった。こうして信長は敗北するとともに、竹中重治という人物の鬼謀を知ることになる。なお、この新加納の戦いにおいて信長が渡河したのも草井の渡しとされる。

愛知県江南市草井 草井渡址碑f:id:shinsaku1234t501:20190817213456j:imageさらに、信長没後の天正12年(1584)、羽柴秀吉織田信雄徳川家康らが対戦した小牧合戦でも重要な役割を担うことになる。

信長の股肱の臣だったゆえ、当然の如く信雄に味方するものだと思われていた美濃大垣城主の池田恒興は突如、羽柴軍に与する。そして、3月13日、その手始めに以前城主を務めていた尾張犬山城を攻略したのである。その時、美濃から尾張に渡河したのが草井の渡しである。確かに、こんにちでもこの地から犬山城木曽川堤でほぼ一直線と言っていい。地の利を得ている恒興は夜陰に乗じた行軍で犬山城に迫り、たった一日で攻略したと言う。

当時、羽柴秀吉はまだ大坂にあり、小牧合戦の前哨戦の段階に過ぎない。恒興が犬山城を攻略して尾張領内に陣取ったことは幸先の良い報せであった。これにより、秀吉は恒興を先導した草井の村人を賞し、渡船業を許可したと言う。

以来、営まれ続けた渡船業は、昭和44年(1969)に愛岐大橋が建設されたことにより、歴史の幕を閉じた。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103636p:image