侍を語る記

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史跡と人物をリンクさせるブログ

私論「下剋上・下克上」その4

せっかくだから、江戸幕府を開いた徳川家康源頼朝足利尊氏らと比較してみたい。

確かに、三河における松平氏はそこそこ有力な家柄とは言えるが、その出自も明らかではなく、所詮は土豪の集合体における盟主程度であった。さらに今川家を奉ずる勢力と織田家を奉ずる勢力の拮抗する微妙なバランスの上で岡崎松平家は成立していた。そんな家康が人質生活まで味わいながら今川家、織田家や豊臣家と渡り合って全国区になるまでには幾つもの山坂があったのは言うまでもない。決して最初から中央に躍り出るほどのアドバンテージを有していたわけではない。

静岡県浜松市中区元城町 元城町東照宮 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20201114220034j:imageまた、政治手腕に関しては南光坊天海や林羅山本多正信・大久保忠隣など綺羅星の如きブレーンが存在したにせよ、彼個人がかなり能動的に独裁政治を展開したのは特筆すべきであろう。この点については、有力御家人に神輿の如く推戴されることで盟主として制限を受けざるを得なかった頼朝、南朝勢力や守護大名の台頭に悩まされ続けた尊氏とは明らかに違う。

また、御恩と奉公のバランスで言っても江戸時代を通じて徳川家の譜代家臣はどちらかと言えば高い石高を以って遇されてはいない。にもかかわらず不平不満による下剋上・下克上」は全くと言っていいほど発生していない。これは江戸幕府の支配体制、裏を返せば譜代家臣の従属体制が極めて秩序的であったことを裏付ける。簡単に言うならば、手っ取り早い出世の手段である戦乱が無くなった分、役職や石高の世襲が約束されることで、基礎的な身分が保障されていたことが大きい。

また、家康の六男である長沢松平忠輝のような改易の事例もあるが、基本的には一族や譜代家臣を温存しつつ、なおかつ彼らを核とした支配体制を全国的に確立した。これは、鎌倉幕府室町幕府のような不安定要素を内在した社会を創らなかったと言える。なぜなら、鎌倉幕府の政治機関である「侍所」・「政所」・「問注所」と言うのは、いずれも武士層を対象としたものであり、決して庶民に対応したものではない。これは室町幕府とて同じである。それらに比べ、江戸幕府は全国的な支配体制を以って朝廷・寺社から百姓・町人に至るまで遍く支配・取締の対象としたのである。反乱が起きにくいのは当然である。

他方、有力な外様大名に対しては懐柔策を以って反逆の隙を与えなかった。具体的には譜代大名よりも多くの石高や松平姓を授けることで一門に準ずる厚遇を約束するなどの方法である。「敬して遠ざける」とはこのことであろう。その逆に支配体制を維持するためには、失政などを理由とした改易や転封など手練手管を駆使した事実も否めない。