侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その8

歴史愛好家の中には、「明治2年の段階で高杉が生きていれば脱隊騒動の展開は違っていたのでは」と考える向きもあるとは思うが、果たして西南戦争における西郷隆盛の如く諸隊に与したかどうかは疑問である。確かに高杉が奇兵隊を創ったとは言えるが、彼自身が開闢(かいびゃく)総督として奇兵隊の中に存在したのは前述の通りわずか3ヶ月間でしかない。また、功山寺挙兵に始まる長州藩内訌戦において、奇兵隊は高杉の言説を危ぶむあまり当初は行動を倶にせず、戦況を見極めてから合流した。

さらに言えば、第二次長州征伐(四境戦争)では長州藩海軍総督として小倉口の指揮を命じられた高杉の下に編入されたにすぎない。すなわち、後世の我々が「高杉と言えば奇兵隊」と連想するほど一体であったとは言い難いのである。そういう意味ではむしろ、軍監として長く奇兵隊の幹部を務めた山縣狂介(のちの山縣有朋)を通して奇兵隊を考察するほうが正解なのかもしれない。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 山縣有朋歌碑 f:id:shinsaku1234t501:20200105095351j:imageまた、奇兵隊が明治の国民皆兵制・徴兵制度の嚆矢と一般には思われがちだが、これまでの経緯から見ても、脱隊騒動が発生したことで一旦は頓挫したと見るべきであろう。その後、明治4年2月13日に入京した鹿児島・高知・山口の三藩から成る御親兵が唯一の国軍として一時期を担った。

真の意味での国民皆兵制は、徴兵告諭(明治5年11月28日太政官布告第379号)に基づいて、明治6年1月に施行された徴兵令によって集められた軍隊を指す。この軍隊が陸軍・海軍として発足する一方で、御親兵は皇居・帝都警護を主目的とする近衛師団や警視庁へと転化していく。そして、この徴兵の有効性が実証されたのは皮肉にも不平士族の反乱を鎮圧したことによる。

当然、国民皆兵制の根源も奇兵隊の創設者である高杉に求めるべきではなく、長州諸隊の洋式軍制化を推進した大村益次郎奇兵隊軍監として実戦を経験し、明治陸軍を掌握するに至った山縣有朋と考えるのが自然であろう。

高杉が奇兵隊を組織したことに端を発して、長州藩内には続々と諸隊ができた。有志による軍隊が林立したこと自体は、長州藩が武士だけではない盛り上がりを見せた証拠ではあるが、それは武士を否定するものでも、凌駕する存在でもなかった。

明治維新の結果から見れば、山縣をはじめ、三好重臣・三浦梧楼・鳥尾小弥太・滋野清彦・寺内正毅桂太郎など陸軍で活躍する人材を輩出したと言えるが、もし幕藩体制が続いていれば藩内の正規兵とは違う「奇」の軍隊の一兵士で終わったかもしれない。

おそらく司馬遼太郎氏は、このような複雑な歴史を踏まえて断じたのであろう。「長州藩奇兵隊の国である」と。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226204611p:image