侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その1

憂国・攘夷の実を思うように達せられないことに悩んでいた高杉晋作は、文久3年(1863)3月15日、長州藩京都藩邸にて10年間の賜暇を願い出た。さらに、翌日には剃髪して「東行」と号す。

「我こそは長州毛利家恩顧の臣」と豪語してやまない高杉がその気持ちとは裏腹に、藩への御奉公を10年間辞めるというのだから、このあたりの心境はかなり矛盾している。しかし、理想肌の人物ほど絶望や落胆の行き先は、えてして真逆の方向や妙な開き直りだったりするものである。

京都府京都市中京区一之船入町都ホテルオークラ 長州藩京都藩邸址 桂小五郎f:id:shinsaku1234t501:20190707084953j:image特に、この文久年間は「尊王攘夷」という独特な歴史用語が独り歩きする混沌とした時期とイメージされがちだが、彼の属す長州藩でさえ上層部は幕府(御公儀)の意向を承る公武合体策が底流にある。確かに、のち武力によって幕府が倒れることにはなるが、この時期に討幕まで視野に入れていたのはごく少数の志士でしかない。むしろ、大名や上級家臣のほとんどは「お家大事」がスタンダードである。朝廷と幕府がバランスを保って現状維持に努めることが何よりなのである。縦しんば幕政に不満があったとしても藩を挙げて戦う道は選択すべきではない。誤解されがちだが、関ヶ原で一敗地に塗れた長州藩薩摩藩でさえ、幕末ギリギリの段階になるまで上層部には確固たる討幕の意志などなかったと言える。もっと言えば、「幕府を批判してはいけない」のレベルではなく、「畏れ多い」・「罰当たり」ぐらいの意識である。のちのオッペケペー節にある「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」とは、まさに太平や安泰を貪る武士層の現状維持を皮肉った歌詞である。

しかし、明治以降の史観から遡れば何とでも言えるだけであって、当時の武士層が「お家大事」を第一に考えるのはごく当たり前の事象である。その上に自身の生活が保障されるのだから当然である。ましてや、そのような環境下で思想家や過激論者が活躍することを各藩とて許すはずがない。

例えば、長州藩内において吉田松陰を擁護する勢力がいた一方で、危険分子と捉える勢力も一定数いたのは事実である。また、元治元年(1864)、信州松代藩佐久間象山が暗殺されると、藩は彼の洋学者としての功績を一顧だにすることもなく佐久間家を断絶に処した。横井小楠にしても、士道忘却事件における士分にあるまじき振舞いを理由に肥後熊本藩から家禄没収・士分剥奪に処せられたまま、浪人の身で維新を迎えた。越前福井藩の厚遇とは対照的な熊本藩の徹底した冷遇ぶりである。薩摩藩の西郷吉之助も国父島津久光との諍いを理由に遠島を繰り返すが、この措置は彼を盟主のように仰ぐ精忠組の台頭を抑えるためとも解釈できる。佐幕派土佐藩からすれば、単に迷惑な存在でしかなかった土佐勤王党を解体に追い込むには、その首領たる武市半平太を処罰する必要があったのは言うまでもない。

以上を見ても、彼らが処分されたり、粛清された事情は、実のところ身分差別や武士の作法以上に他藩にまで及ぼしかねない思想的影響力や行動力を恐れるがゆえと考えることができる。f:id:shinsaku1234t501:20230226205235p:image