侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その5

これは高杉の最も怖れるところであった。というのは、奇兵隊結成から3ヶ月後の文久3年(1863)8月16日、奇兵隊と先鋒隊(のちの撰鋒隊)の間で小規模な武力衝突(教法寺事件)が発生したことで、高杉は監督責任を感じて切腹を申し出た。その結果、結成わずか3ヶ月にして総督を罷免されるに至った。以来、奇兵隊はじめ諸隊は藩の監督下に置かれたのである。

高杉としては民衆の底力を信じて奇兵隊を組織し、「回天義挙」と呼ばれるクーデターの先頭に立って諸隊と生死を倶にしたものの、一人の武士としては決して封建秩序を崩壊させたいわけではない。また、彼自身、八組士と呼ばれるれっきとした上級家臣出身であるため、同じ上級家臣の干城隊に寄せる期待もある。当然、教法寺事件の二の舞は断じて生じさせてはならない。

そこで、内憂に対する干城隊、外患に対する諸隊という形で存立基盤を分ければ住み分けが出来ると踏んだのであろう。ゆえに諸隊の目線を藩外に向けようと言うのである。しかし、根本的な問題を棚上げする高杉の考えは、まさに因循姑息と言わざるをえないだろう。

山口県下関市長府川端1丁目 金山功山寺 高杉晋作回天義挙之所碑f:id:shinsaku1234t501:20230113211148j:image長州藩のために命を賭ける諸隊の志は大いに認めるところではあるが、「あくまでも軍政の主導権は武士層にあり、奇兵隊はやむなく結成したに過ぎない」というのが高杉の偽らざる本音である。むしろ、強烈な武士意識の持ち主である彼は決して身分制度を否定したわけではなく、単に民衆のパワーを利用したに過ぎなかったのである。この矛盾こそがのちの火種と化す。

また、もう一つの背景として、天保年間に長州藩内で頻発した一揆に象徴されるように、民衆の底力とそれを後押しする商人・庄屋などの存在は注目に値する。

白石正一郎・入江和作・吉富藤兵衛などの富裕層をスポンサーとして有志を募り、戦功次第では出世も夢ではないという妄想を掻き立てた諸隊は奇兵隊に続けとばかりに、荻野隊・膺懲隊(ようちょうたい)・集義隊・義勇隊・遊撃隊・八幡隊と藩内に乱立していく。一方でスポンサーとなった人々は維新後、さしたる見返りも得られずに没落していった。

さらに、高杉亡き後、この奇兵隊及び諸隊は干城隊と同じく山口藩兵として戊辰戦争に参戦、「東」すなわち江戸を経て蝦夷まで従軍したあげく、凱旋後の明治3年(1870)には一転、藩からの解散命令に不服を唱えた反乱軍として討伐の憂き目に遭う。f:id:shinsaku1234t501:20230226204933p:image