侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その2

この論法からすれば、上海に渡航してイギリスによる植民地政策の何たるかに触れた経験を持つ高杉が、時代の変革を模索しても肝心の長州藩が動くはずはない。かといって、独りでできることはせいぜい反対論者の暗殺程度であって大局を揺るがすには及ばない。もちろん長州藩がそのような犯罪行為を許すはずもない。

結果、動くに動けず、窮した高杉はおそらく全てのしがらみから遠ざかろうとしたのであろう。政治情勢が変化した10年後に復帰して藩のために尽くせば、それは決して不忠ではない。長州藩を見限るどころか、いずれ藩の役に立つための10年間に亘る研鑽なのである。言い得て妙なわがままである。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 高杉東行先生像f:id:shinsaku1234t501:20190707114620j:imageさらに、いにしえの西行法師を慕うがゆえ、その名をもじって「東行」と号したというが、なぜ「北」でも「南」でもなく、「東」なのか。これはあくまでも推測の域を出ないが、「東」とは具体的に江戸を連想させる。すなわち恩師吉田松陰を屠った幕府を倒すべく、いつか江戸へ攻め上る、という意志の表れと解釈できる。

ともあれ、直後、藩の命令に従って萩に帰国するのだが、実は隠遁生活を送ったのは10年どころか、わずか2ヶ月足らずである。祝言後、ろくに新婚生活を共にしていなかった妻の雅子と水入らずの生活を営み、読書と詩作にいそしんでいた6月初め、長州藩庁より呼び出されることになる。

というのは、勅命を奉じた長州藩が5月10日夜半から関門海峡を航行する諸外国船に次々と砲撃をおこなった下関攘夷戦(下関戦争)が勃発したからである。3回目までは長州藩の一方的な砲撃で済んでいたが、4回目の対アメリカ戦・5回目の対フランス戦では報復攻撃を受けて藩船を破壊されたり、一時的に上陸を許すほどに惨敗を喫した。幸い、アメリカ・フランスともに本気で長州藩を叩くつもりはなく、「目にものを見せてやる」という程度の攻撃で去っていったが、一刻も早い防衛の再構築が必要であった。

この緊迫した状況の中で下関の防衛を託されたのが高杉東行こと、晋作である。f:id:shinsaku1234t501:20230226205159p:image