侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

私論「下剋上・下克上」その1

以下は「広辞苑」の記載内容である。

げ‐こく‐じょう【下剋上・下克上】

(「下、上に剋かつ」の意)下位の者が、上位の者の地位や権力をおかすこと。南北朝時代からの下層階級台頭の社会風潮をいい、室町中期から戦国時代にかけて特に激しくなった。太平記27「臣君を殺し子父を殺す。力を以て争ふ可き時到る故に―の一端にあり」

ただ、問題がある。果たして、南北朝時代を起源とするのが正解なのだろうか。確かに下剋上・下克上」の顕著な動きは南北朝時代以降に事例が多いとは言える。しかし、それ以前にはこのような風潮はなかったとまで言及していいのだろうか。

例えば、大化の改新の端緒として知られる蘇我入鹿暗殺事件はどうであろうか。これは、「乙巳の変」という用語の通り、戦乱にまでは至らず、且つ朝廷の国体を維持した状態で時の政治権力者の排除がおこなわれた、いわば政争の範囲内であることから「変」を用いる。しかし、中大兄皇子中臣鎌足らによる蘇我入鹿への下剋上・下克上」とは表現しない。

時代が下り、平将門藤原純友の例(承平・天慶の乱)もある。これらは朝廷に対して戦乱を以って反逆した行為だから「乱」として位置づけられるが、やはり朝廷への下剋上・下克上」とは表現しない。

そこで、誰もが知る政治変革を成し遂げた大きな例として源頼朝足利尊氏、すなわち鎌倉幕府室町幕府を開闢した両者を比較したところ、意外なほどに共通点が多い点に注目する。

⚫️共に源氏の御曹子として一目置かれる家格を有していた。

⚫️当時の社会情勢に対する不平分子の受け皿として耳目を集めた。それぞれ平家への不満・建武新政への憤懣を原動力とすることで団結し、勢力拡大に成功した。

⚫️一地方から全国区の勢力に発展した。元来は流人、もしくは源氏の血筋とはいえ下野国の一御家人でしかなかった。

⚫️側近勢力に推戴される存在ゆえ、実は個人としての政治能力を意外と発揮していない。その勢力基盤は自身に忠実な与党と言うよりも、対立構図から屯集した不平分子が多かった。そのため盟主でありながら、暗に彼らの期待に沿う動きを要求され続けた。頼朝の場合、北条氏・三浦氏・和田氏など有力御家人があってこその盟主の座であった。その証拠に頼朝没後、将軍職を世襲した頼家や実朝が御家人の支持を得られない中で苦もなく謀殺されてしまった。

尊氏にしても南朝以上に高氏・畠山氏・土岐氏・佐々木氏・赤松氏・上杉氏などの与党のほうがはるかに恐ろしい存在であった。彼らの意向を反映しなければ自身でさえ命が危うかった可能性がある。

栃木県足利市大門通 足利尊氏f:id:shinsaku1234t501:20200802004332j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226103421p:image

中条氏館(埼玉県熊谷市)

埼玉県熊谷市上中条

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館址f:id:shinsaku1234t501:20210822140428j:image長承元年(1132)、武蔵判官こと藤原常光国司として中条の地に下向し、居住した館址である。

龍智山毘慮遮那寺常光院 藤原常光墓f:id:shinsaku1234t501:20200504210151j:imageその孫と伝わる家長源平合戦を経て鎌倉幕府評定衆にも名を連ね、のちには御成敗式目の制定にも参画した。建久3年(1192)、鎌倉に常駐していた家長は、中条氏館の敷地内に祖父常光の菩提寺を建立した。今も残る龍智山毘慮遮那寺常光院である。

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀f:id:shinsaku1234t501:20200504210253j:image龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館空堀f:id:shinsaku1234t501:20210822140522j:image家長の同時代、この近辺は隣から隣へ鎌倉御家人の所領が存在した。例えば、同じ熊谷市には、のちの忍城主に繋がる成田氏や熊谷直実・直家父子が居住していた。
隣の行田市には河原高直・盛直兄弟が勢力を持ち、吉見町や北本市には源頼朝の腹違いの弟である範頼の所領があった。加須市の戸崎国延、高柳行元、葛浜行平、道智次郎、常陸に土着する以前の多賀谷氏も挙げられる。鴻巣市には笠原頼直・親景兄弟、奴加田氏などが住していた。

時は下り、家長から数えて十六代目にあたる英俊は、忍城主 成田親泰に臣属、さらに四代のちの常安が成田氏長と不和になって越後に出奔すると所領を没収された。その常安の子、数馬はお家再興を許されると、天正18年(1590)の忍城籠城戦で皿尾口の副将として戦死を遂げる。一方、嫡流当主の景定小田原征伐の最中、小田原城に籠城していたため、留守の中条氏館は廃城の憂き目を味わうことになる。

龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀f:id:shinsaku1234t501:20210822140620j:imageなお余談ではあるが、中条氏には三河に別家がある。時は南北朝時代足利尊氏に属して功があった景長(家長の曾孫)三河高橋庄地頭職として賀茂郡挙母郷(愛知県豊田市)に金谷城を築いた。その弟の秀長室町幕府奉公衆として隆盛を極めるに至ったが、戦国時代には勢力の衰退に伴い、被官の三宅氏や鈴木氏が独立するなど混迷を深めていく。そこに駿河今川義元三河岡崎の松平元康(のちの徳川家康)などが次々と攻撃をしかけ、永禄4年(1561)、当主常隆尾張織田信長家臣 佐久間信盛の来襲になす術もなく降伏した。
余談だが、織田信長肖像画の中で一番有名と言っていい「紙本著色織田信長像」を所蔵する集雲山長興寺は、建武2年(1335)に秀長が創建した三河中条氏の菩提寺でもある。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103512p:image

小牧長久手戦跡 草井の渡し(愛知県江南市)

愛知県江南市草井

承久3年(1221)、承久の乱に際して鎌倉幕府軍が尾張から美濃に侵攻した。この時、北条泰時率いる幕府軍尾張国一宮こと真清田神社(愛知県一宮市真清田)に布陣する。

6月6日、北条時氏・有時ら率いる幕府軍尾張草井の渡しから木曽川対岸の美濃摩免渡の渡し(岐阜県各務原市前渡東町)への渡河を敢行する。朝廷側の総大将 藤原秀康と摩免渡の守将 三浦胤義・佐々木広綱らは、前夜のうちに近江瀬田を目指して撤退していたが、摩免渡に留まった鏡久綱は、押し寄せる北条時氏・北条有時・大江佐房・大江信房・阿曽沼親綱・小鹿嶋公成・波多野経朝・三善康知・安保実光ら幕府軍を迎え撃ち、多勢に無勢の中で自害した。こうして、北条泰時三浦義村らはまさに草井の渡しから摩免戸に渡り、京都への進軍を果たすことになる。

時は変わり、永禄6年(1563)4月、小牧山城を発した織田信長は美濃に侵攻した。信長率いる兵5,700に対し、美濃新加納に布陣する斎藤龍興の兵は3,500と劣勢だった。しかし、新加納に迫った信長勢に突如襲いかかったのは斎藤龍興の家臣、竹中半兵衛重治率いる伏兵であった。こうして信長は敗北するとともに、竹中重治という人物の鬼謀を知ることになる。なお、この新加納の戦いにおいて信長が渡河したのも草井の渡しとされる。

愛知県江南市草井 草井渡址碑f:id:shinsaku1234t501:20190817213456j:imageさらに、信長没後の天正12年(1584)、羽柴秀吉織田信雄徳川家康らが対戦した小牧合戦でも重要な役割を担うことになる。

信長の股肱の臣だったゆえ、当然の如く信雄に味方するものだと思われていた美濃大垣城主の池田恒興は突如、羽柴軍に与する。そして、3月13日、その手始めに以前城主を務めていた尾張犬山城を攻略したのである。その時、美濃から尾張に渡河したのが草井の渡しである。確かに、こんにちでもこの地から犬山城木曽川堤でほぼ一直線と言っていい。地の利を得ている恒興は夜陰に乗じた行軍で犬山城に迫り、たった一日で攻略したと言う。

当時、羽柴秀吉はまだ大坂にあり、小牧合戦の前哨戦の段階に過ぎない。恒興が犬山城を攻略して尾張領内に陣取ったことは幸先の良い報せであった。これにより、秀吉は恒興を先導した草井の村人を賞し、渡船業を許可したと言う。

以来、営まれ続けた渡船業は、昭和44年(1969)に愛岐大橋が建設されたことにより、歴史の幕を閉じた。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226103636p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その8

歴史愛好家の中には、「明治2年の段階で高杉が生きていれば脱隊騒動の展開は違っていたのでは」と考える向きもあるとは思うが、果たして西南戦争における西郷隆盛の如く諸隊に与したかどうかは疑問である。確かに高杉が奇兵隊を創ったとは言えるが、彼自身が開闢(かいびゃく)総督として奇兵隊の中に存在したのは前述の通りわずか3ヶ月間でしかない。また、功山寺挙兵に始まる長州藩内訌戦において、奇兵隊は高杉の言説を危ぶむあまり当初は行動を倶にせず、戦況を見極めてから合流した。

さらに言えば、第二次長州征伐(四境戦争)では長州藩海軍総督として小倉口の指揮を命じられた高杉の下に編入されたにすぎない。すなわち、後世の我々が「高杉と言えば奇兵隊」と連想するほど一体であったとは言い難いのである。そういう意味ではむしろ、軍監として長く奇兵隊の幹部を務めた山縣狂介(のちの山縣有朋)を通して奇兵隊を考察するほうが正解なのかもしれない。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 山縣有朋歌碑 f:id:shinsaku1234t501:20200105095351j:imageまた、奇兵隊が明治の国民皆兵制・徴兵制度の嚆矢と一般には思われがちだが、これまでの経緯から見ても、脱隊騒動が発生したことで一旦は頓挫したと見るべきであろう。その後、明治4年2月13日に入京した鹿児島・高知・山口の三藩から成る御親兵が唯一の国軍として一時期を担った。

真の意味での国民皆兵制は、徴兵告諭(明治5年11月28日太政官布告第379号)に基づいて、明治6年1月に施行された徴兵令によって集められた軍隊を指す。この軍隊が陸軍・海軍として発足する一方で、御親兵は皇居・帝都警護を主目的とする近衛師団や警視庁へと転化していく。そして、この徴兵の有効性が実証されたのは皮肉にも不平士族の反乱を鎮圧したことによる。

当然、国民皆兵制の根源も奇兵隊の創設者である高杉に求めるべきではなく、長州諸隊の洋式軍制化を推進した大村益次郎奇兵隊軍監として実戦を経験し、明治陸軍を掌握するに至った山縣有朋と考えるのが自然であろう。

高杉が奇兵隊を組織したことに端を発して、長州藩内には続々と諸隊ができた。有志による軍隊が林立したこと自体は、長州藩が武士だけではない盛り上がりを見せた証拠ではあるが、それは武士を否定するものでも、凌駕する存在でもなかった。

明治維新の結果から見れば、山縣をはじめ、三好重臣・三浦梧楼・鳥尾小弥太・滋野清彦・寺内正毅桂太郎など陸軍で活躍する人材を輩出したと言えるが、もし幕藩体制が続いていれば藩内の正規兵とは違う「奇」の軍隊の一兵士で終わったかもしれない。

おそらく司馬遼太郎氏は、このような複雑な歴史を踏まえて断じたのであろう。「長州藩奇兵隊の国である」と。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226204611p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その7

悲劇はなおも続く。苛烈な処分を以って脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允のやり方に異論を唱える前原一誠が9月2日、兵部大輔を辞職して明治政府を下野した。

そして、明治9年(1876)、旧脱隊兵や旧干城隊士を含む殉国軍を率いて彼が挙兵したのが萩の乱である。脱隊騒動の鎮圧後、農民や町民は家業に戻る術もあったが、武士層は秩禄処分で家禄までも危うくなり、廃刀令などで武士の特権さえも奪われたと焦燥を募らせる。討幕や維新といった革命は、信じていた栄達どころか、拠りどころであった身分特権や生活保障さえも奪い去ったのである。そこには教科書で言うところの「士族の反乱」という一言で片付けることができない問題が種々存在した。例えば、鹿児島が西南戦争まで矛盾を抱え続けたのも同様の問題を孕んでいたからである。

思い返せば、高杉が「武士層で構成された干城隊が藩の軍政を掌握すべき」と考えていたのは、この悲劇を予見したものだろうか。確かに、命がけで俗論党政権を打倒した勇敢な軍隊ではあるが、その分、乱暴狼藉を働いて傍若無人に振る舞う諸隊に困惑した高杉が、干城隊という藩秩序の下に組み込もうとした苦慮は理解できないわけではない。

「然ば私儀当地罷下候所、殊外混雑驚入候次第に御座候付、此中之敗軍不堪愧恥候。何卒雪恥候はんと思慮仕候所、惣奉行方自ら惣奉行之指揮に御座候事故、如何共も難為、遂に有志隊を相調候と決定仕候。」(前田孫右衛門あて 文久三年六月八日)

山口県下関市新地町 高杉東行終焉之地碑f:id:shinsaku1234t501:20191023025250j:image実は当初から高杉の本音は垣間見えていた。文久3年(1863)の下関攘夷戦直後、高杉が目の当たりにしたのは外国艦隊に完敗した長州藩兵の姿であり、混乱した町の様子であった。この如何ともしがたい事態に、やむなく有志隊(奇兵隊)を結成する決意をしたとある。本来は正規武士で構成された先鋒隊だけで下関を防衛できれば、それに越したことはないが、この有様を見るにつけ、苦肉の策として奇兵隊を創設したというのである。高杉の中では主役を補う脇役としての奇兵隊という位置付けに過ぎない。

一方、長州藩内訌戦・第二次長州征伐(四境戦争)・戊辰戦争と戦火をくぐり抜ける中で、諸隊の当事者たちが論功や立身出世、生活保障を期待したとしても当然と言える。しかし、蓋を開けてみたら、明治維新は幕府と朝廷の政権の奪い合いでしかなかった。その後の歴史が物語る通り、士族の反乱・自由民権運動などを経て身分制度が崩壊していくには、まだまだ多大な時間を要した。それにつけても、この一件にはどうしても「トカゲの尻尾切り」のようなイメージがつきまとう。f:id:shinsaku1234t501:20230226204726p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その6

まず、第二次長州征伐の際に占領した豊前企救郡(現在の福岡県北九州市行橋市)と石見浜田藩領(現在の島根県浜田市)を朝廷の命に従い返還することとなった。すなわち、山口藩の領土が減少するからには、兵士のリストラを図らなければならない。

さらに、干城隊・奇兵隊及び諸隊の中には、戊辰戦争の賞典(論功行賞)に対する不満が根強く残っていた。そこに、山口藩の常備軍四個大隊を編制するにあたり干城隊や諸隊から幹部クラスが優先的に取り立てられた。一方、選に漏れた者は一方的に解散を言い渡されたが、諸隊を解体することなく依然として居座り続けた。そして、これらの憤懣が「脱隊騒動」と呼ばれる事件を惹き起こした。

明治3年(1870)1月13日に石見浜田裁判所を襲撃した諸隊(脱隊兵)は、24日には山口藩の命を受けて立ちはだかった干城隊を撃退して山口藩議事館(山口藩庁)を包囲した。そこに農民一揆が合流したことで勢いが膨れ上がる。そして、解散の撤回を要求すると同時に、常備軍構想の中心人物として元奇兵隊士の三浦五郎(のちの三浦梧楼)襲撃を企てたが、間一髪、三浦は脱出する。

東京都港区南青山2丁目 都立青山霊園 三浦梧楼墓f:id:shinsaku1234t501:20191020064359j:image当時、明治政府で兵部大輔の職にあった前原一誠の胸中は極めて複雑だった。そもそも干城隊の頭取であり、第二次長州征伐の最中に病気で戦線を離脱した高杉の後任として奇兵隊をも指揮した人物である。また、北越戦争でも諸隊と行動を共にした。ゆえに干城隊・諸隊の脱隊兵に同情的な立場であったが、三条実美の慰留を受けて東京に留まらざるをえなかった。

一方、偶然にも常備軍編制のため帰郷していた木戸孝允・政府軍を率いて駆けつけた井上馨らは知藩事の職にある毛利元徳の命を受け、長三洲・高杉小忠太高杉晋作の父)ら山口藩常備軍と合流し、脱隊兵と対峙する。騒動は小郡や三田尻での激戦を経て、ようやく鎮圧に至った。脱隊兵の長島義輔ら主要人物は斬首に処せられたが、首謀者の一人である大楽源太郎は逃亡した。一方、脱隊兵の説諭に失敗した山口藩権大参事の楫取素彦は引責辞職した。

高杉の提唱により結成し、高杉のもとで藩内訌戦を戦い抜き、高杉の遺志を継いで討幕に邁進した奇兵隊及び諸隊は、皮肉にも高杉が忠義を尽くした山口藩によって一揆の如く滅ぼされたのである。明治維新の悲劇は会津藩に代表されるように敗北した幕府側にスポットが当たりがちだが、実のところ、新政府側に就いた諸藩にも何かしらの形で存在したことを忘れてはいけない。f:id:shinsaku1234t501:20230226204814p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その5

これは高杉の最も怖れるところであった。というのは、奇兵隊結成から3ヶ月後の文久3年(1863)8月16日、奇兵隊と先鋒隊(のちの撰鋒隊)の間で小規模な武力衝突(教法寺事件)が発生したことで、高杉は監督責任を感じて切腹を申し出た。その結果、結成わずか3ヶ月にして総督を罷免されるに至った。以来、奇兵隊はじめ諸隊は藩の監督下に置かれたのである。

高杉としては民衆の底力を信じて奇兵隊を組織し、「回天義挙」と呼ばれるクーデターの先頭に立って諸隊と生死を倶にしたものの、一人の武士としては決して封建秩序を崩壊させたいわけではない。また、彼自身、八組士と呼ばれるれっきとした上級家臣出身であるため、同じ上級家臣の干城隊に寄せる期待もある。当然、教法寺事件の二の舞は断じて生じさせてはならない。

そこで、内憂に対する干城隊、外患に対する諸隊という形で存立基盤を分ければ住み分けが出来ると踏んだのであろう。ゆえに諸隊の目線を藩外に向けようと言うのである。しかし、根本的な問題を棚上げする高杉の考えは、まさに因循姑息と言わざるをえないだろう。

山口県下関市長府川端1丁目 金山功山寺 高杉晋作回天義挙之所碑f:id:shinsaku1234t501:20230113211148j:image長州藩のために命を賭ける諸隊の志は大いに認めるところではあるが、「あくまでも軍政の主導権は武士層にあり、奇兵隊はやむなく結成したに過ぎない」というのが高杉の偽らざる本音である。むしろ、強烈な武士意識の持ち主である彼は決して身分制度を否定したわけではなく、単に民衆のパワーを利用したに過ぎなかったのである。この矛盾こそがのちの火種と化す。

また、もう一つの背景として、天保年間に長州藩内で頻発した一揆に象徴されるように、民衆の底力とそれを後押しする商人・庄屋などの存在は注目に値する。

白石正一郎・入江和作・吉富藤兵衛などの富裕層をスポンサーとして有志を募り、戦功次第では出世も夢ではないという妄想を掻き立てた諸隊は奇兵隊に続けとばかりに、荻野隊・膺懲隊(ようちょうたい)・集義隊・義勇隊・遊撃隊・八幡隊と藩内に乱立していく。一方でスポンサーとなった人々は維新後、さしたる見返りも得られずに没落していった。

さらに、高杉亡き後、この奇兵隊及び諸隊は干城隊と同じく山口藩兵として戊辰戦争に参戦、「東」すなわち江戸を経て蝦夷まで従軍したあげく、凱旋後の明治3年(1870)には一転、藩からの解散命令に不服を唱えた反乱軍として討伐の憂き目に遭う。f:id:shinsaku1234t501:20230226204933p:image