侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その4

ここで問題だが、自身の生き様としては誇り高き武士に固執し、妻にも「士之女房」の教養を押し付けるほどの彼が、一方では武士以外の身分層に期待するような軍隊を結成したというのはどうにも矛盾しているのである。後年、怒りのあまり赤禰武人奇兵隊三代目総管)を「土百姓」と罵倒したことから、高杉は身分制度肯定の人物だという見方があるが、その程度なら勢いのあまりつい口汚い言葉を吐いてしまったと見れなくもない。

むしろ注目すべきは、功山寺挙兵を経て長州の藩論が武備恭順に統一されたのち、奇兵隊をはじめとする諸隊が藩内の一大勢力になることを危惧した内容の書面を諸隊の幹部に宛てて発していることである。

「萩表之様子を察るに既に政府一新、干城隊も確たる事故、内憂を消滅する儀は政府諸君子、干城隊之諸壮士に任置き、諸隊之者は手を分外患を防禦する事急務ならむ。(中略)干城隊日に盛になり、民心日に鎮静する様、諸隊はより心を添候様有之度ならむ。」(太田市之進ほか七名あて 元治二年二月二十三日)

山口県下関市長府川端1丁目 金山功山寺 高杉晋作挙兵像f:id:shinsaku1234t501:20201201200149j:image元治元年(1864)12月の功山寺挙兵に端を発する長州藩内訌戦により佐幕派の俗論党政権が倒れ、藩政府が一新されると撰鋒隊は解体され、やはり上級家臣による干城隊(かんじょうたい)が新たに組織された。ゆえに藩の内政は刷新された政府員及び干城隊に任せ、諸隊は外患に備える事が急務である。(中略)また、干城隊が日々整備され、民心が鎮撫されるよう諸隊にも協力してもらいたいというのである。

ちなみに、この干城隊は世禄隊という別名の通り、八組士や遠近附士といった門閥・上級家臣のみで構成された軍隊であるが、俗論党政府の頃は日和見、もしくは従属していた系統の人々である。

一方の奇兵隊はじめ諸隊は、クーデターで俗論党政府を倒した実績もあって、この前まで日和見だった干城隊にも侮蔑のような意識がある。しかも、あまりに勢力が大きくなり過ぎたため、新しい藩政府に介入しようとしたり、至る所で乱暴狼藉を起こした。またしても、両者の間に軋轢が生じる。f:id:shinsaku1234t501:20230226205034p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その3

そこで、高杉は敗戦の中で際立った奮戦を見せた久坂玄瑞らの光明寺党(森俊斎こと、公家の中山忠光を擁立して下関の光明寺で結成した義勇軍)にヒントを得て、広く身分を問わない志願兵による軍隊の創設を藩に上申したのである。

「馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一策あり。請う。有志の士を募り一隊を創設し、名付けて奇兵隊といわん。」(奇兵隊日記)

当時、長州藩には門閥・上級家臣で組織された正規兵としての先鋒隊(せんぽうたい、のち撰鋒隊)が存在した。しかし、光明寺党が亀山砲台を死守したのに対し、先鋒隊はフランス軍艦の猛攻に蜘蛛の子を散らして退却したという。下関の町人はその有様を「麦の黒穂と 先鋒隊は 勢をそろえて出るばかり」と嘲笑した。

高杉は、エリート藩士で構成された先鋒隊を「正規兵」とするならば、下級家臣・農民・町人などによって組織された民兵組織を「奇」と位置づけて奇兵隊を結成した。構成としては、武士層とそれ以外の層で半々ではあったが、武士層も下級家臣や微禄の者がほとんどであった。

まず、この発想の根源としては、吉田松陰が唱えた「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」が考えられる。危急に及んで草莽(草の根的な人在)が崛起(立ち上がる)するというのは、まさに松陰の理想の具現化である。

ちなみに、松下村塾門下生の中で高杉晋作前原一誠国司仙吉・河北義次郎・岡部富太郎・木梨信一・山田顕義・宍戸璣などは連綿たる武士の家系である。

対して、久坂玄瑞伊藤博文山県有朋品川弥二郎赤禰武人吉田稔麿入江九一・野村靖・松本鼎などは身分が低い、もしくは武士以外の出自であった。

これらの人々が松下村塾において交流したことは、高杉の人間関係に影響しただけではなく、長州藩改め山口藩から人材を輩出する歴史的結果となった。しかし、全く身分差別が無かったかと言うと、そこは封建制度の江戸時代である。師である松陰から見れば門下生は一体であったとしても、出自は常について回る。高杉などは身分からしても、学識からしても周囲を圧倒して従える立場にあった。そして、今また新設の奇兵隊では総督を任される。

一方、高杉は終生、「毛利家の忠臣でありたい」と願うあまり、妻雅子にも武士の妻としての倫理観を求め続けた。

「そもじ事も我れら留守候間は間合に手習なりとも致候様頼申候。士之女房は歌之一首くらいは読めねばつまり不申候。乍爾ぬい物事も要用之事に付、右之間合に心懸候得ば随分出来る物に御座候。」(文久二年四月十三日 妻マサあて)

上海渡航を前にした高杉が雅子に対して、武士の女房の基本的手習、特に和歌の勉強と縫い物の重要性を説いている。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 髙杉家累代之墓(高杉雅子墓)f:id:shinsaku1234t501:20230113212431j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226205119p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その2

この論法からすれば、上海に渡航してイギリスによる植民地政策の何たるかに触れた経験を持つ高杉が、時代の変革を模索しても肝心の長州藩が動くはずはない。かといって、独りでできることはせいぜい反対論者の暗殺程度であって大局を揺るがすには及ばない。もちろん長州藩がそのような犯罪行為を許すはずもない。

結果、動くに動けず、窮した高杉はおそらく全てのしがらみから遠ざかろうとしたのであろう。政治情勢が変化した10年後に復帰して藩のために尽くせば、それは決して不忠ではない。長州藩を見限るどころか、いずれ藩の役に立つための10年間に亘る研鑽なのである。言い得て妙なわがままである。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 高杉東行先生像f:id:shinsaku1234t501:20190707114620j:imageさらに、いにしえの西行法師を慕うがゆえ、その名をもじって「東行」と号したというが、なぜ「北」でも「南」でもなく、「東」なのか。これはあくまでも推測の域を出ないが、「東」とは具体的に江戸を連想させる。すなわち恩師吉田松陰を屠った幕府を倒すべく、いつか江戸へ攻め上る、という意志の表れと解釈できる。

ともあれ、直後、藩の命令に従って萩に帰国するのだが、実は隠遁生活を送ったのは10年どころか、わずか2ヶ月足らずである。祝言後、ろくに新婚生活を共にしていなかった妻の雅子と水入らずの生活を営み、読書と詩作にいそしんでいた6月初め、長州藩庁より呼び出されることになる。

というのは、勅命を奉じた長州藩が5月10日夜半から関門海峡を航行する諸外国船に次々と砲撃をおこなった下関攘夷戦(下関戦争)が勃発したからである。3回目までは長州藩の一方的な砲撃で済んでいたが、4回目の対アメリカ戦・5回目の対フランス戦では報復攻撃を受けて藩船を破壊されたり、一時的に上陸を許すほどに惨敗を喫した。幸い、アメリカ・フランスともに本気で長州藩を叩くつもりはなく、「目にものを見せてやる」という程度の攻撃で去っていったが、一刻も早い防衛の再構築が必要であった。

この緊迫した状況の中で下関の防衛を託されたのが高杉東行こと、晋作である。f:id:shinsaku1234t501:20230226205159p:image

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その1

憂国・攘夷の実を思うように達せられないことに悩んでいた高杉晋作は、文久3年(1863)3月15日、長州藩京都藩邸にて10年間の賜暇を願い出た。さらに、翌日には剃髪して「東行」と号す。

「我こそは長州毛利家恩顧の臣」と豪語してやまない高杉がその気持ちとは裏腹に、藩への御奉公を10年間辞めるというのだから、このあたりの心境はかなり矛盾している。しかし、理想肌の人物ほど絶望や落胆の行き先は、えてして真逆の方向や妙な開き直りだったりするものである。

京都府京都市中京区一之船入町都ホテルオークラ 長州藩京都藩邸址 桂小五郎f:id:shinsaku1234t501:20190707084953j:image特に、この文久年間は「尊王攘夷」という独特な歴史用語が独り歩きする混沌とした時期とイメージされがちだが、彼の属す長州藩でさえ上層部は幕府(御公儀)の意向を承る公武合体策が底流にある。確かに、のち武力によって幕府が倒れることにはなるが、この時期に討幕まで視野に入れていたのはごく少数の志士でしかない。むしろ、大名や上級家臣のほとんどは「お家大事」がスタンダードである。朝廷と幕府がバランスを保って現状維持に努めることが何よりなのである。縦しんば幕政に不満があったとしても藩を挙げて戦う道は選択すべきではない。誤解されがちだが、関ヶ原で一敗地に塗れた長州藩薩摩藩でさえ、幕末ギリギリの段階になるまで上層部には確固たる討幕の意志などなかったと言える。もっと言えば、「幕府を批判してはいけない」のレベルではなく、「畏れ多い」・「罰当たり」ぐらいの意識である。のちのオッペケペー節にある「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」とは、まさに太平や安泰を貪る武士層の現状維持を皮肉った歌詞である。

しかし、明治以降の史観から遡れば何とでも言えるだけであって、当時の武士層が「お家大事」を第一に考えるのはごく当たり前の事象である。その上に自身の生活が保障されるのだから当然である。ましてや、そのような環境下で思想家や過激論者が活躍することを各藩とて許すはずがない。

例えば、長州藩内において吉田松陰を擁護する勢力がいた一方で、危険分子と捉える勢力も一定数いたのは事実である。また、元治元年(1864)、信州松代藩佐久間象山が暗殺されると、藩は彼の洋学者としての功績を一顧だにすることもなく佐久間家を断絶に処した。横井小楠にしても、士道忘却事件における士分にあるまじき振舞いを理由に肥後熊本藩から家禄没収・士分剥奪に処せられたまま、浪人の身で維新を迎えた。越前福井藩の厚遇とは対照的な熊本藩の徹底した冷遇ぶりである。薩摩藩の西郷吉之助も国父島津久光との諍いを理由に遠島を繰り返すが、この措置は彼を盟主のように仰ぐ精忠組の台頭を抑えるためとも解釈できる。佐幕派土佐藩からすれば、単に迷惑な存在でしかなかった土佐勤王党を解体に追い込むには、その首領たる武市半平太を処罰する必要があったのは言うまでもない。

以上を見ても、彼らが処分されたり、粛清された事情は、実のところ身分差別や武士の作法以上に他藩にまで及ぼしかねない思想的影響力や行動力を恐れるがゆえと考えることができる。f:id:shinsaku1234t501:20230226205235p:image

内藤家長と佐貫城(千葉県富津市)

千葉県富津市佐貫

天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の江戸お討ち入りにより、内藤弥次右衛門家長が上総天羽郡佐貫2万石で入封した平山城である。

佐貫城址大手口f:id:shinsaku1234t501:20190504090632j:image応仁年間(1467〜1469)に武田義広が築城したことに始まったとされ、真里谷武田家・安房里見家などの幾多の攻防の地でもあった。というのも、弘治2年(1556)に里見義弘がおこなった鎌倉攻撃に際して水軍を発した事実にも裏付けられるように、内房における水軍基地にもなりうる要衝だったことが窺える。

また、天正6年(1578)に里見義弘が死去すると、その子梅王丸(のちの里見義重)と家臣加藤信景が入城したものの、家督相続を巡って対立関係にあった里見義頼が北条氏政の後援を得て上総統一に着手した結果、天正8年(1580)、籠城戦に敗れた義重は開城の上、出家に追い込まれた。

城郭は本丸・二の丸・三の丸で構成され、中世のものと思われる切岸と、近世に整備されたであろう大手門櫓台の石垣などが混在している。

佐貫城址 二の丸切岸f:id:shinsaku1234t501:20190504095812j:image佐貫城址 大手門櫓台f:id:shinsaku1234t501:20190504100026j:imageさて、内藤家長であるが、三河一向一揆では父清長と袂を分かち、家康のもとで一揆鎮圧に奮戦する。以降、父譲りの弓の名手として遠江掛川城遠江三方ヶ原、三河長篠、尾張小牧長久手、相模小田原と、主要な合戦に従軍して常に徳川家の軍事の一角を担う。また、家康の長男信康の死後、その家臣団の多くを預けられた。
さらに、天正17年(1589)には豊臣秀吉から豊臣姓を賜る。井伊直政榊原康政・大久保忠隣・高力清長などに続く徳川家臣への賜姓である。家康の偏諱から「家長」と名乗りながら豊臣姓を賜るという、実は天下に名高い武将であった。

慶長5年(1600)、家長は鳥居元忠とともに山城伏見城に籠城し、挙兵した西軍を迎え撃つ。
この時、「西軍を相手に正々堂々と総大将の名乗りを挙げて討死しないと三河武士の名折れ」という総大将の元忠と、「東軍が西上するための時間稼ぎをするために討死の事実を隠して、可能な限り西軍を翻弄すべし」とする副将の家長との間で意見の相違が生じた。
結果、総大将の元忠は石段に腰掛けて堂々と名乗って切腹し、その首は西軍の手によって梟首された。
一方、西ノ丸の守将であった家長は得意の弓で防戦するも燃えさかる炎の中で自刃する。続いて16歳の次男小一郎元長も壮烈果敢な自刃を遂げた。
彼らの首級は密かに家臣の手で近江大津の大練寺に埋葬されたが、のち長男の政長が家長の菩提寺として佐貫に善昌寺(のちの勝隆寺)を創建したことで改葬された。
対照的とはいえ、鳥居元忠内藤家長どちらも徳川三河武士の意地を貫いた壮絶な死と言える。ちなみに享年は55歳と伝わる。

千葉県富津市佐貫花香谷 旧勝隆寺址 内藤家長墓(左から2番目 善昌院殿)、元長墓(左から3番目 修徳院殿)f:id:shinsaku1234t501:20190504093013j:image当時、家長の長男政長は西軍の上杉景勝に備えて下野宇都宮城を守備していた。家長の家臣、原田勘右衛門の注進で伏見落城を知った家康は、直ちに政長へ家督相続を命じる。

結果、宇都宮城守備の功と父家長の忠死により、関ヶ原合戦後に1万石を加増され、のち佐貫において4万5千石にまで出世した。さらに、元和8年(1622)7万石に加増され陸奥磐城平に移封となる。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226205336p:image

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その4

しかし、これほどの隆盛を極めた上林家も春松家を除いて明治以降は廃業せざるをえない状況に追い込まれた。

その一番の理由は江戸幕府という最大の顧客を失ったことに他ならない。さらに、明治初期には1,300ヘクタールほどあった宇治近辺の茶畑が、平成の頃には80ヘクタールを切るまでに減少しているという。それほどに宇治茶が希少なものになってしまった一方で、生活や嗜好の変化に伴い、流通する茶の種類も多様になってきたのである。現在、日本の市場に流通する茶の中で「宇治茶」の生産量は1パーセントにも満たないという。

しかし、武功の兄弟の精神とともに「宇治茶」を末代に伝える果敢な努力がおこなわれている。

京都府宇治市宇治蓮華 朝日山平等院 上林竹庵政重碑誌f:id:shinsaku1234t501:20190308211720j:image春松家は「上林春松本店」として現在も宇治で製茶業を営み、濃茶「祖母昔」や裏千家御好「嘉辰の昔」など幅広く銘茶を販売する一方で、日本コカ・コーラ株式会社との協働ブランド「綾鷹」を量産展開していることでつとに有名である。この「綾鷹」は江戸幕府滅亡を経て一般市民に向けて販売すべく開発された緑茶に端を発する。宇治平等院参道に直営店・別会社「お茶のかんばやし」などを展開し、荘厳な長屋門を構える「宇治・上林記念館」では歴史上の人物との交流を示す豊富な史料や上林竹庵坐像などを展示している。

また、三入家も大正7年(1918)、田中四郎吉に経営を譲渡して、現在の「三星園 上林三入本店」に至る。抹茶「献上初音」・玉露「最上瑞草亀齢」などの主力商品を揃え、やはり宇治平等院参道に店を構えている。16代目当主はテレビ番組などにも出演する一方、店舗2階に併設してある「三休庵・宇治茶資料室」では、やはり歴史上の人物との書状や御茶壺道中のジオラマなどを通して上林家の茶の歴史を伝えている。ちなみに、三星園の登録商標地図記号における茶畑の由来という説がある。

最後に、これは武野紹鷗・千利休などを通して確立された「茶道」の話ではなく、時代の為政者との関わりの中でより質の高い宇治茶を提供し続けた「茶師」の話である。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230304104413p:image

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その3

結果、長男の掃部丞久茂・四男の越前守政重ら兄弟による武功は、上林家の地位を決定的なものにした。というのも、天領(幕府直轄地)となった宇治には代官所が設置され、久茂の血統である上林六郎家(上の上林家・峯順家)と政重の血統からなる上林又兵衛家(下の上林家・竹庵家)が交替で江戸中期まで代官職を世襲することになる。

一方、上林家は江戸時代を通じて朝廷や将軍家が飲むお茶を献上する「御物御茶師(ごもつおちゃし)」を務めた。貞享2年(1685)刊の「京羽二重」巻六から、上林諸家と呼ばれる一族の隆盛が見て取れる。

⚫️峯順家(久茂の孫、勝盛を祖とする系統。上林六郎家・上林門太郎家・上の上林家・宇治代官職500石)

京都府宇治市宇治蓮華 朝日山平等院最勝院 上の上林家初代の墓f:id:shinsaku1234t501:20190308211902j:image⚫️平入家(勝盛の弟で祖父久茂の養子となった勝茂を祖とする系統)

⚫️味卜家(久重次男紹喜を祖とする系統。肥後細川家・土佐山内家御用)

京都府宇治市宇治蓮華 朝日山平等院最勝院 上林味卜家墓f:id:shinsaku1234t501:20190308211952j:image⚫️春松家(久重三男秀慶を祖とする系統。尾張徳川家・阿波蜂須賀家御用)

⚫️竹庵家(久重四男政重を祖とする系統。上林又兵衛家・下の上林家・宇治代官職300石)

政重の戦死直後に高野山へ逃れていた嫡男政信を呼び戻した徳川家康が「又兵衛」の名とともに300石を下賜したことに始まる。

⚫️三入家(上林の姓を賜った藤村三入の系統。肥前鍋島家永世用達)

初代三入は関ヶ原合戦で西軍に属した鍋島勝茂の赦免に奔走した恩により、勝茂から「永世用達」の栄誉を受ける。この縁を頼って明治32年(1899)佐賀県佐賀市に移ったのが、現在も残る上林茶店である。ちなみに、三代目三入が竹庵家の娘を娶ったことで、れっきとした上林家の血統でもある。

また同時に、上林家は三代将軍家光の頃から新茶を献上するための御茶壺道中を仕切る立場にあった。東海道経由で江戸城から中身が入っていない御茶壺道中が到着すると、上林家で碾茶を茶壺に詰め中山道経由で江戸城へ向かう、これが御茶壺道中である。

「ずいずいずっころばし こまみそずい 茶壺に追われてトッピンシャン 抜けたらドンドコショ」とは、まさにこの道中行列の威風を謡ったものである。即ち、大名行列と同格であるため、沿道の庶民は行列が通り過ぎるまで平伏を強いられる。もちろん、不調法があれば手打ちにさえなりかねない。ゆえに茶壺道中が近づくと追われるかのように家に戻り、戸をピシャンと締めて息を潜める。行列が通過したら「やれやれ」と胸を撫で下ろす。こんな光景が慶応3年(1867)まで続いたのである。f:id:shinsaku1234t501:20230304104525p:image