埼玉県熊谷市上中条
龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館址長承元年(1132)、武蔵判官こと藤原常光が国司として中条の地に下向し、居住した館址である。
龍智山毘慮遮那寺常光院 藤原常光墓その孫と伝わる家長は源平合戦を経て鎌倉幕府の評定衆にも名を連ね、のちには御成敗式目の制定にも参画した。建久3年(1192)、鎌倉に常駐していた家長は、中条氏館の敷地内に祖父常光の菩提寺を建立した。今も残る龍智山毘慮遮那寺常光院である。
龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館空堀家長の同時代、この近辺は隣から隣へ鎌倉御家人の所領が存在した。例えば、同じ熊谷市には、のちの忍城主に繋がる成田氏や熊谷直実・直家父子が居住していた。
隣の行田市には河原高直・盛直兄弟が勢力を持ち、吉見町や北本市には源頼朝の腹違いの弟である範頼の所領があった。加須市の戸崎国延、高柳行元、葛浜行平、道智次郎、常陸に土着する以前の多賀谷氏も挙げられる。鴻巣市には笠原頼直・親景兄弟、奴加田氏などが住していた。
時は下り、家長から数えて十六代目にあたる英俊は、忍城主 成田親泰に臣属、さらに四代のちの常安が成田氏長と不和になって越後に出奔すると所領を没収された。その常安の子、数馬はお家再興を許されると、天正18年(1590)の忍城籠城戦で皿尾口の副将として戦死を遂げる。一方、嫡流当主の景定は小田原征伐の最中、小田原城に籠城していたため、留守の中条氏館は廃城の憂き目を味わうことになる。
龍智山毘慮遮那寺常光院 中条氏館水堀なお余談ではあるが、中条氏には三河に別家がある。時は南北朝時代、足利尊氏に属して功があった景長(家長の曾孫)は三河高橋庄地頭職として賀茂郡挙母郷(愛知県豊田市)に金谷城を築いた。その弟の秀長は室町幕府奉公衆として隆盛を極めるに至ったが、戦国時代には勢力の衰退に伴い、被官の三宅氏や鈴木氏が独立するなど混迷を深めていく。そこに駿河の今川義元・三河岡崎の松平元康(のちの徳川家康)などが次々と攻撃をしかけ、永禄4年(1561)、当主常隆は尾張の織田信長家臣 佐久間信盛の来襲になす術もなく降伏した。
余談だが、織田信長の肖像画の中で一番有名と言っていい「紙本著色織田信長像」を所蔵する集雲山長興寺は、建武2年(1335)に秀長が創建した三河中条氏の菩提寺でもある。(完)