侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

武功の兄弟、茶を末代に伝えんとす その2

一方、天正12年(1584)、末弟の政重は小牧長久手合戦に従軍し、家康から感状を賜るほどの戦功を挙げた。

愛知県長久手市岩作色金 色金山歴史公園 徳川家康床机石f:id:shinsaku1234t501:20190309170741j:imageともかくも、その後、上林家は秀吉の下においても宇治茶を栽培し続け、茶の湯文化の一翼を担うことになる。地理的にも大坂城聚楽第伏見城と、秀吉の居城は常に近い位置にあり、諸大名のステータスとなりつつあった茶の湯の爛熟期にはさぞかし忙しかったことであろう。実際、久茂・味卜・春松・政重ら四兄弟の祖母(上林氏忠室)の製茶を家康が「祖母昔(ばばむかし)」と名付けて愛飲したという。旧主家康の上方滞在中に政重がご機嫌伺いと情勢報告を兼ねて、その茶を届けていたのかもしれない。

その政重も千利休茶の湯を学び、剃髪の上、竹庵と号していた。天正19年(1591)、「最期に上林の茶を所望する」と記した切腹直前の利休の書や小堀政一古田重然との文書なども、こんにち春松家に伝わる。いかに上林一族が当時の歴史上の人物と関わってきたか、これもまた歴史の一面である。

そして、その上林家にとっても、日本史上においても、慶長5年(1600)という一大転機の年が来る。徳川家康上杉景勝を討伐すべく大坂城を出発し、伏見城に入る。鳥居元忠を城将とし、内藤家長・深溝松平家忠・大給松平近正ら譜代家臣に留守居役を命じたものの、この会津征伐の最中に石田三成ら反徳川勢力が挙兵すれば、さしたる兵力を残していない伏見の落城は必至である。

そして、いよいよ西軍が迫るとなった時、宇治在住の上林竹庵こと政重は、茶筅をあしらった旗印を携えて劣勢の伏見城を守るべく入城していくのである。過去に戦功があったとはいえ、本業は「茶師」なのだから、家康から命じられたとは考えにくい。そんな政重が落城を前提とした城に自ら飛び込んでいくのである。いや、むしろ頼み込んで仲間に加えてもらったのかもしれない。

8月1日、西軍を相手に籠城戦を演じてきた伏見城は、味方の裏切りから炎に包まれ、政重は乱戦の中で鈴木重朝に討たれた。元亀・天正の昔、家康に仕えた忠義の心、それ一つで殉じた壮絶な最期と言えよう。鳥居元忠同様、その首級は大坂京橋口で梟首されたが、元忠や政重と親交があった京都の商人、佐野四郎右衛門が夜陰に紛れて奪い、元忠を京都の知恩寺、政重を平等院に埋葬した。

その1ヶ月半後、弟の無念を晴らすかのように、長兄の久茂は関ヶ原合戦に東軍として従軍し、石田三成家臣の田辺宗兵衛を討ち取るという功を挙げる。f:id:shinsaku1234t501:20230304104641p:image