侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

高杉の矛盾を投影した奇兵隊 その3

そこで、高杉は敗戦の中で際立った奮戦を見せた久坂玄瑞らの光明寺党(森俊斎こと、公家の中山忠光を擁立して下関の光明寺で結成した義勇軍)にヒントを得て、広く身分を問わない志願兵による軍隊の創設を藩に上申したのである。

「馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一策あり。請う。有志の士を募り一隊を創設し、名付けて奇兵隊といわん。」(奇兵隊日記)

当時、長州藩には門閥・上級家臣で組織された正規兵としての先鋒隊(せんぽうたい、のち撰鋒隊)が存在した。しかし、光明寺党が亀山砲台を死守したのに対し、先鋒隊はフランス軍艦の猛攻に蜘蛛の子を散らして退却したという。下関の町人はその有様を「麦の黒穂と 先鋒隊は 勢をそろえて出るばかり」と嘲笑した。

高杉は、エリート藩士で構成された先鋒隊を「正規兵」とするならば、下級家臣・農民・町人などによって組織された民兵組織を「奇」と位置づけて奇兵隊を結成した。構成としては、武士層とそれ以外の層で半々ではあったが、武士層も下級家臣や微禄の者がほとんどであった。

まず、この発想の根源としては、吉田松陰が唱えた「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」が考えられる。危急に及んで草莽(草の根的な人在)が崛起(立ち上がる)するというのは、まさに松陰の理想の具現化である。

ちなみに、松下村塾門下生の中で高杉晋作前原一誠国司仙吉・河北義次郎・岡部富太郎・木梨信一・山田顕義・宍戸璣などは連綿たる武士の家系である。

対して、久坂玄瑞伊藤博文山県有朋品川弥二郎赤禰武人吉田稔麿入江九一・野村靖・松本鼎などは身分が低い、もしくは武士以外の出自であった。

これらの人々が松下村塾において交流したことは、高杉の人間関係に影響しただけではなく、長州藩改め山口藩から人材を輩出する歴史的結果となった。しかし、全く身分差別が無かったかと言うと、そこは封建制度の江戸時代である。師である松陰から見れば門下生は一体であったとしても、出自は常について回る。高杉などは身分からしても、学識からしても周囲を圧倒して従える立場にあった。そして、今また新設の奇兵隊では総督を任される。

一方、高杉は終生、「毛利家の忠臣でありたい」と願うあまり、妻雅子にも武士の妻としての倫理観を求め続けた。

「そもじ事も我れら留守候間は間合に手習なりとも致候様頼申候。士之女房は歌之一首くらいは読めねばつまり不申候。乍爾ぬい物事も要用之事に付、右之間合に心懸候得ば随分出来る物に御座候。」(文久二年四月十三日 妻マサあて)

上海渡航を前にした高杉が雅子に対して、武士の女房の基本的手習、特に和歌の勉強と縫い物の重要性を説いている。

山口県下関市大字吉田 清水山東行庵 髙杉家累代之墓(高杉雅子墓)f:id:shinsaku1234t501:20230113212431j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230226205119p:image