侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していたという証拠でもある。そもそも歴史上の人物を善人・悪人という視点で分類することにさほど意味はないと考える。

例えば、北条早雲(伊勢宗瑞)は謀略で小田原城を奪うことで関東に覇を唱え、武田信玄は一方的に同盟や約束を破棄して版図を拡げ続けた人物でもある。

義を掲げる上杉謙信は助けを請う者を救うことなく撤退を繰り返し、毛利元就は陰謀の限りを尽くして敵を撹乱した。

織田信長は軍事力・経済力・政治力を併せ持つ稀有の存在として朝廷をも脅かす存在と化し、豊臣秀吉は粛清を繰り返して典型的な独裁者の道を歩んだ。

石田三成も止むに止まれぬ忠義とはいえ、豊臣家を保つためにおよそ政治力を駆使せず、逆に軍事力に訴えた点において首謀者の側面を持つ。さらに、戦場から敗走して捕縛されたのちに「大志を持つ者は命を惜しむ」と言い放った干し柿の話がつとに有名だが、それを言ってしまったら関ヶ原の戦場で奮戦の末に自害した大谷吉隆や戦死した嶋清興・平塚為広らは命を惜しまなかったことになる。本当に再起を図るためというならばどこへ逃れようとしたのか、もしくは命冥加で逃げただけなのか、美談や贔屓に引きずられることなく冷静に解釈する必要がある。そういった意味では、将たる資質にも疑問が残る。

上杉景勝は下野から引き返す東軍を追撃せずに無傷で帰してしまう裏切りともとれる失態を演じ、一方で戦局に直接影響がない最上義光を攻撃しただけである。

毛利輝元もまた、関ヶ原の主戦場ではなく、伊予出兵という局地戦に終始し、西軍の敗戦を知るや、あっさりと大坂城から退去するおよそ総大将とは思えない不甲斐なさである。
真田信繁にしても、関ヶ原の敗戦後に兄信之や本多忠勝らの助命嘆願で命拾いしながら、大坂方に与するという傍目から見れば恩知らずで自分本位な面があり、大坂城に籠城した牢人衆もまた戦乱を望み、功を立て名を挙げるという目的のために豊臣家を利用して滅亡に追い込む一役を担ったと非難されても仕方がない。

そして、肝心の豊臣秀頼は自身を巡る合戦でありながら、大坂の陣ではただの一度も出陣しないという奇妙な対応をした。現在判明している範囲で、この人物が能動的におこなったのは裏切者と目される人物を石垣の上から突き落としたことと自害だけであった。

京都府右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 五台山清凉寺 秀頼公首塚f:id:shinsaku1234t501:20170919204615j:image