下総臼井城は、千葉常兼の三男 臼井六郎常康の築城とされるが定かではない。
文明10年(1478)12月10日の境根原合戦(千葉県柏市)で太田道灌・千葉自胤らに敗れた千葉孝胤は、臼井俊胤の居城 臼井城に籠城した。
千葉県柏市光ヶ丘団地 酒井根合戦場址説明板千葉県柏市光ヶ丘団地 酒井根合戦場址 首塚か?胴塚か?翌年、太田道灌・千葉自胤らは臼井城を包囲し、同年7月に攻略した。しかし、籠城軍の総攻撃を受けた道灌の弟(もしくは甥)にあたる太田資忠が戦死するという代償も生じた。
臼井城三ノ丸 太田資忠墓 その後、足利義明が小弓公方を称すると、当時の城主 臼井景胤(臼井俊胤嫡男)は千葉勝胤(千葉孝胤嫡男)と決別して足利義明に仕える。しかし、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため、千葉勝胤への帰属を選ぶ羽目になった。
これで平和が到来したと思いきや、下総屈指の要衝に、またしても危機が到来する。と言うのも、永禄4年(1561)、里見義堯の家臣、正木信茂の来襲を受け落城の憂き目に遭うのである。
外祖父である原胤貞の元で傀儡の状態にあった臼井久胤(臼井景胤嫡男)は落城の混乱に紛れて脱出し、下総結城城の結城晴朝を頼る。それから数年後、第二次国府台合戦で正木信茂が戦死すると、その機を逃さず原胤貞が城を奪還するに至った。
臼井城本丸虎口土塁