侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その23

例えば、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が発生すると、釈明のため駿府に派遣された且元は家康に拝謁を許されず、後から派遣された大蔵卿が家康に歓待されたという有名なエピソードがある。ここだけ見ると、且元が交渉相手として軽く見られ、大蔵卿のほうが優遇されたと映る。果たしてそうだろうか。

むしろ、家康からすれば大蔵卿を相手にしていないからこそ、適当な美辞麗句であしらったと考えることもできる。実際、大蔵卿は方広寺鐘銘事件の核心に触れることがなかったのである。

一方、且元が駿府まで来ながら拝謁を許されずに長逗留させられたのは、こんにちの外交の常套手段であって、迎える側は時間通りにテーブルに就かず、わざと遅れて現れるのと同じで、それほどに家康が怒っているという無言の圧力を意味する。

そもそも家康にとって大事なことは、方広寺鐘銘の具体的な文言の問題ではなく、自分がどれほど怒っているかという感情や温度を、もっと言えば幕府体制下における豊臣家の一大名としての立場なりを且元を通して大坂方に知らしめることに意味がある。且元が震え上がって、慌てふためいてくれるほうがより好都合なのである。

京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町 方広寺 梵鐘f:id:shinsaku1234t501:20170905025551j:imageその結果、「豊臣家の大和郡山移封」や「秀頼の江戸参勤」・「淀殿の江戸人質」などの条件が且元から秀頼に伝わった。これらの条件が家康の側近から実際に打診されたのか、且元が家康の怒りを忖度して独自に考えたのかは分からないが、一切の条件を飲まないとなれば、さらに事態は悪化する。待った無しの状況を理解している且元としては、どれか一つでも実行に移すべく説得にあたる。しかし、この説得が必死であればあるほど、且元の徳川家内通を疑わせる要因となっていく。

全てを拒絶した結果が大坂冬の陣となるのだが、屈辱的な外交とはいえ、且元が粘り強く苦心していた姿は、むしろ忠義と言えよう。彼は三成のように大坂方を擁して挙兵する道を選ばなかった。ゆえに、暴発寸前となっている大坂方からは「手ぬるい」・「腰抜け」・「裏切者」と誹りを受け、挙句の果てに襲撃を受けることになった。確かに、彼が真に内通者ならば大坂方の士気高揚のためにも始末すべきである。

その且元に襲撃計画を知らせたのが、御伽衆として淀殿の側にいた織田信雄(常真)である。その信雄もほどなく大坂城を出奔することになる。もはや外交云々の余地はなく、挙兵あるのみという城内の沸騰ぶりが窺える。

関ヶ原合戦の場合は、秀吉の死から僅か2年しか経っていない状況もあり、豊臣恩顧や全国の大名の趨勢に期待する部分があった。

しかし、大坂冬の陣は秀吉の死・関ヶ原合戦・幕府成立を経てなお十年近くを経ている。世の趨勢の中で豊臣家の身の振り方を見定めるには充分過ぎる時系列があったはずである。その中で下記のような現実的な議論を重ね続ける且元と、豊臣家という看板を1ミリたりとも下げようとしない城内の群臣との軋轢こそが且元を内通者に歪めたのではなかろうか。

 「『徳川太公は、義元の誼を失はずして氏真を納れ、信長の好を遺れずして信雄を助けたり。先公(秀吉)、其の然るを知る。故に終に臨んで孤を託す。君務めてその驩心を失はざれ。則ち以て長久なるべし。不らずんば則ち禍将に測られざらんとす』と。秀頼頗る悟る。而して群臣悦ばず。且元数々関東に使するを以て、其の私あるを意ひ、稍々これを猜防す。」(日本外史

 群馬県甘楽郡甘楽町小幡 織田宗家七代の墓 織田信雄f:id:shinsaku1234t501:20170929211727j:image冬の陣終結後、且元が家康から駿府に屋敷を与えられたことも内通説に拍車をかける要因だが、大坂城を出奔して幕府軍に就いた苦渋の決断に報いる家康ならではの同情の表れなのかもしれない。江戸ではなく、家康のお膝元である駿府という点は非常に意味があると思われる。