侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

臼井城 後編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園

こうして、永らく臼井氏の居城だった臼井城は千葉胤富の家臣、原氏の時代を迎える。

しかし、永禄9年(1566)3月20日上杉輝虎の関東出兵に従う結城晴朝・酒井胤治ら、さらに呼応した里見義堯・里見義弘らの大軍に四方を包囲されるという最大の危機に瀕する。この時、結城晴朝の軍には臼井城を我が手に戻す意気込みの旧主 臼井久胤の姿があった。

千葉県佐倉市王子台 一夜城公園 謙信一夜城址f:id:shinsaku1234t501:20180712203249j:image戦局は多勢に無勢のため、「鑁阿寺文書」に「臼井之地実城堀一重ニ致之」とあるように、上杉・里見連合軍が堀を挟んで本丸にまで迫った。

臼井城本丸土塁と空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203343j:imageこの窮地に、原胤貞は多部田城主で軍配師の白井入道浄三こと、白井胤治(別人の白井胤定とする説もあり、実在も定かではない)に作戦を委ねる。胤治は占術で策を練った。

臼井城本丸空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203443j:imageまずは無数の敵軍が取り付いた頃合いを見計らって城壁ごと堀に突き落とすことで一瞬にして数百人を圧死させるなど、楠木正成さながらの奇策を用いて敵軍を翻弄した。さらに、北条氏康からの援軍 松田康郷が本丸から討って出ると「赤鬼」と呼ばれる鬼神の働きで敵軍をなぎ倒した。

臼井城本丸虎口f:id:shinsaku1234t501:20180712203523j:image海上年代記」に「房州人数三百余人打ち死に」とあることから、房州、即ち安房里見軍の戦死者数のみを伝えている。

一方、「戦国遺文」では上杉軍に数千人の死傷者が出たとしている。この上杉軍が里見軍を含めた人数なのか、また戦死者だけでなく、負傷者も混在した人数であることは気をつけなければならない。

また、「諸州古文書」によれば、北条氏政武田晴信に送った書には「敵数千人手負死人出来」と記載があり、正確な死傷者は分からないものの、やはり数千人と伝わっていたようである。

さらに、「豊前氏古文書抄」所収の豊前山城守宛て足利義氏の書では「去廿三日大責致し、五千余手負い死人出来せしめ、廿五敗北の段」として、3月23日の大敗で5,000人以上の死傷者と他に比べて具体的な数字を示しているだけでなく、25日に敗北したとしている。

臼井城本丸物見櫓址f:id:shinsaku1234t501:20180712203606j:imageこうして甚大な被害を被る中、輝虎の陣に近江矢島村滞在中の足利義秋から書(3月10日付)が届いた。北条氏康との和睦及び室町幕府再興のための上洛を要請する内容であった。それが原因か定かではないが、輝虎は4月半ばに撤兵を決断した。

臼井城本丸切岸f:id:shinsaku1234t501:20180712203658j:image余談ではあるが、上杉輝虎、即ち不識庵謙信は川中島合戦に代表されるように屈指の強さを誇る戦国大名の代表格とされるが、実のところ、関東管領職にありながら関東ではほぼ爪痕を残せなかったと言っていい。

俗に、北条氏・武田氏・上杉氏の攻防を指して「関東三国志」と例えるが、この上杉氏撤退を契機に北条氏は関東の守りを強固なものとし、武田氏は武蔵・上野など北関東への進出を図った。また、由良成繁(上野金山城主)は上杉氏から離反して北条氏に帰属、上杉氏の影響力が無くなった常陸では佐竹氏が台頭することになった。