侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

木田余城 前編(茨城県土浦市)

茨城県土浦市木田余

木田余城跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170226225702j:image土浦城の項にもあるように信太氏の滅亡により土浦城の属城となった木田余城は、一時期、小田城を逐われた小田氏治が入城したこともある。
天正6年(1578)、佐竹義重により落城の上、廃城となる。

江戸時代の土浦城主朽木氏は木田余城址の遺構を残すべく本丸跡に宝積寺を移築するが、明治36年(1903)、汽車の飛び火で焼失したため、移転してしまう。

湿地帯を利用した水城だったというだけあって、現在周囲にはレンコン畑が多いが、本丸を分断するJR常磐線の線路沿いに案内板・地下道の行き止まりに城址碑・宝積寺跡地と思われる墓地には遺構と考えられる堀や土塁らしき遺構が認められる。

城址f:id:shinsaku1234t501:20170227221713j:image宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構f:id:shinsaku1234t501:20170226230213j:image宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構f:id:shinsaku1234t501:20170226230326j:image宝積寺墓地と思われる土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226230435j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142544p:image

土浦城 その5(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城本丸跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170226035125j:image本丸は太鼓櫓門、東櫓、霞門、西櫓などで囲まれ、周囲に内堀が巡らされている。

霞門(現存)f:id:shinsaku1234t501:20170226035240j:image土浦城西櫓脇にある土屋神社(藩主土屋氏の氏神f:id:shinsaku1234t501:20170226035404j:image内堀(北側)f:id:shinsaku1234t501:20170226041030j:image内堀(西側)f:id:shinsaku1234t501:20170226041156j:image慶長7年(1602)5月17日、佐竹義宣水戸城主)は徳川家康より出羽秋田郡への転封を命じられ、同年9月17日、秋田の土崎湊城(秋田県秋田市)に入城した。

その直後の水戸城には徳川家康の五男、武田松平信吉が25万石で入城し、その没後には家康の十男にして当時2歳の長福丸(のちの紀伊徳川頼宣)が20万石で入封する。しかし、長福丸自身は駿府城の家康の元で養育され、水戸城には入らなかった。

こうした経緯から考えるに、土浦城の歴史的意義は、下総古河城主 結城秀康の属城にして、関ヶ原合戦前後の水戸城 佐竹義宣に対する牽制の役目にあったと思われる。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230322101000p:image

土浦城 その3(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城西櫓脇にある信太範宗供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170226015231j:image紀貞頼の家系から出た信太氏と菅谷氏は、ともに小田城の小田氏に仕えた。
その信太氏滅亡には諸説ある。

1.天文23年(1554)、信太範宗は菅谷左衛門尉に誘殺された。

2.「菅谷伝記」では、信太範宗が主君小田氏治と不和になったことで居城の木田余城に籠って出仕しなくなった。氏治は激怒して範宗を討とうとしたが、菅谷政貞に一任。政貞は自らも氏治に無礼を働いて蟄居を命じられる。
こうして氏治に不満を持つ者同士となった政貞は、範宗に接近して謀叛を持ちかける。意気投合した範宗は中根主膳邸にて月見の宴と称して謀叛計画を密議。
その酒席の油断を突いた政貞は範宗を殺害し、すかさず木田余城をも攻略したとする。

3、「土浦記」では政貞を勝貞とし、範宗は勝貞の伯父という設定になっている。二人は不仲で、勝貞が氏治に「範宗が北条氏直に内通している」と讒言したため、土浦城に謀殺したとある。

4、「烟田日記」に「永禄十三年正月、氏治は木田余城主信田某を土浦で殺害し、木田余城に入った」とある。

 土浦城西櫓脇に残る信太範宗供養塔は、上記3及び4の説にもある土浦で殺害したという挿話に基づくものであろう。f:id:shinsaku1234t501:20230322092800p:image

土浦城 その1(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城太鼓櫓門f:id:shinsaku1234t501:20170226011716j:image西尾忠照が楼門を正門とし、朽木稙綱が太鼓櫓門に改築したものが現存する。

土浦城太鼓櫓門f:id:shinsaku1234t501:20170226024629j:image【歴代城主一覧】

平将門という説があるが、裏付ける史料はない。

若泉三郎(小田氏家臣)が永享年間(1429〜1441)に築城したことが文献で確認できる。

若泉五郎右衛門

菅谷勝貞が、永正13年(1516)、同じ小田氏家臣の若泉五郎右衛門を襲撃して攻略した。

信太範貞

菅谷政貞

菅谷範政は、天正18年(1590)の小田原征伐において北条氏に属したため、佐竹氏・徳川氏などの攻撃を受けて落城した。

結城秀康は、徳川家康の関東移封に伴って結城城を本拠としながら、土浦城も領する。(城代は多賀谷村広や本多左門など)

藤井松平信一は、慶長6年(1601)、結城秀康が越前北ノ庄に移封されると同時に、3万5千石で入封した。

藤井松平信吉の代に4万石に加増された。

西尾忠永は、元和3年(1617)、藤井松平信吉が上野高崎に移封されると同時に、2万石で入封した。

西尾忠照は、東櫓・西櫓を建築して楼門を正門とした。

朽木稙綱は、慶安2年(1649)、西尾忠照が駿河田中に移封されると同時に、3万石で入封した。

朽木稙昌は、城塀を瓦葺きにして正門を太鼓櫓門に改築した。

土屋数直は、寛文9年(1669)、朽木稙昌が丹波福知山に移封されると同時に、4万5千石で入封した。

土屋政直は、家督相続3年足らずで駿河田中に移封した。

大河内松平信興は、天和2年(1682)、土屋政直が駿河田中に移封されると同時に入封した。家臣の山本菅助晴方(山本勘助子孫)を奉行として、大手口・搦手口を武田流に普請する。

土屋政直、貞享4年(1687)、大河内松平信興大坂城代に就任すると同時に、6万5千石で再入封した。

土屋陳直は、森沖新田・下沼新田などの開発や城下町の拡大をおこなった。

土屋篤直は、安永5年(1776)に死去した。

土屋寿直は、篤直の長男で、安永6年(1777)、家督相続わずか7ヶ月にして17歳で死去した。

土屋泰直は、篤直の次男で、異母兄寿直の養子として家督相続し、農政改革をおこなった。

土屋英直は、藩政改革をおこなう一方、土浦城内に稽古所(藩校 郁文館)を設置した。

土屋寛直は、文化8年(1811)、15歳で死去した。

土屋彦直

土屋寅直は、徳川斉昭に倣った藩政改革をおこなった。

土屋挙直は、明治2年(1869)の版籍奉還土浦藩知事に任じられ、明治4年(1871)、廃藩置県知藩事を免官ののち、内務省御用掛兼勧農局事務取扱役として下総牧羊場に勤務した。

 土浦城太鼓櫓門f:id:shinsaku1234t501:20170226024725j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230322092555p:image