侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

土浦城 その3(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城西櫓脇にある信太範宗供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170226015231j:image紀貞頼の家系から出た信太氏と菅谷氏は、ともに小田城の小田氏に仕えた。
その信太氏滅亡には諸説ある。

1.天文23年(1554)、信太範宗は菅谷左衛門尉に誘殺された。

2.「菅谷伝記」では、信太範宗が主君小田氏治と不和になったことで居城の木田余城に籠って出仕しなくなった。氏治は激怒して範宗を討とうとしたが、菅谷政貞に一任。政貞は自らも氏治に無礼を働いて蟄居を命じられる。
こうして氏治に不満を持つ者同士となった政貞は、範宗に接近して謀叛を持ちかける。意気投合した範宗は中根主膳邸にて月見の宴と称して謀叛計画を密議。
その酒席の油断を突いた政貞は範宗を殺害し、すかさず木田余城をも攻略したとする。

3、「土浦記」では政貞を勝貞とし、範宗は勝貞の伯父という設定になっている。二人は不仲で、勝貞が氏治に「範宗が北条氏直に内通している」と讒言したため、土浦城に謀殺したとある。

4、「烟田日記」に「永禄十三年正月、氏治は木田余城主信田某を土浦で殺害し、木田余城に入った」とある。

 土浦城西櫓脇に残る信太範宗供養塔は、上記3及び4の説にもある土浦で殺害したという挿話に基づくものであろう。f:id:shinsaku1234t501:20230322092800p:image