侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その10

こうして、家康が武断派を上手く自陣営に取り込み、三成ら文治派への憎悪の念を利用した結果、村越直吉の一言に奮起した東軍は、8月21日に上流隊と下流隊の二手に分かれて清洲城を出陣することになった。

池田照政・その実弟羽柴長吉(のちの池田長吉)浅野幸長山内一豊一柳直盛ら上流隊1万8千人は、8月22日明け方に河田の渡しで織田秀信隊と前哨戦を演じたのちに小屋場島で陣を整え、同日昼頃、さらに木曽川を渡った米野で石田三成からの援軍を含む織田隊との決戦に勝利、東南から岐阜城を目指して進軍した。

岐阜県各務原市川島笠田町6丁目 小屋場島の陣跡碑(池田照政・山内一豊ら東軍の木曽川渡河直前の陣地)f:id:shinsaku1234t501:20201201202013j:image米野の後方に布陣していた秀信は急ぎ退却して岐阜城に籠城した。秀信とは、亡き信忠の嫡男として清洲会議織田家家督相続者と位置づけられた三法師、その人である。当然、豊臣秀吉には大恩がある。

しかし、一方では家老の木造具康が「公、右府の嫡孫を以て、顧つて豊臣氏の家奴に役せらるるか」(日本外史)と再三に亘って西軍への同心、すなわち豊臣家の風下に就くことを反対していた。

岐阜県各務原市川島町 米野の戦い跡碑f:id:shinsaku1234t501:20180116221725j:image一方の下流隊は福島正則・長岡忠興・黒田長政加藤嘉明藤堂高虎京極高知井伊直政本多忠勝ら1万6千人で構成され、河田の渡しよりもはるか下流の加賀野井から渡河、8月22日午前8時から午後4時ぐらいまでかけて杉浦重勝の籠る竹ヶ鼻城を攻略した。その後、西南方向から岐阜城に迫ったが、すでに岐阜城下に入っている池田・浅野らの隊に追いつくための夜間強行軍だったようで、長岡忠興などは馬上で湯漬けを食したという。

岐阜城下に到着すると、池田照政ら上流隊に出し抜かれた怒りをぶつけた福島が池田に対して刀に手をかけるほどの喧嘩を始め、長岡や加藤嘉明らが必死に止めに入る場面すらあった。家康からの目付として従軍していた井伊直政本多忠勝らの心労は察して余りあるだろう。

こうして岐阜城下に集結した東軍は、8月23日、たった一日にして岐阜城を攻略した。落城寸前に自害しようとしていた織田秀信を説得して思いとどまらせたのは池田照政であり、その戦いぶりを賞賛し、自らの武功と引き換えに家康に助命嘆願したのは福島正則高野山まで送り届けたのは浅野幸長であった。

秀信は岐阜城下で剃髪の上で高野山蟄居となったが、信長と対立した過去を持つ高野山側としては、その孫を受け入れるのにはかなりの抵抗があり、入山はできたものの周囲の冷ややかな対応に耐え切れず、5年後に下山した直後、麓の村で生涯を終えたというのは誠に気の毒である。

往時、織田信秀・信長の二代に亘り斎藤氏を斃して攻略するまでにかなりの年月を要した岐阜城は、信長の孫の代になったら一日で陥落した。攻め手の中に岐阜城を熟知している旧城主 池田照政がいるという具体的な理由もあるが、東軍の勢いが優っていたと見るべきか、各方面に散らばるあまり岐阜城を全面的に応援できなかった西軍の事情があるのか、およそ天下分け目とは思えないあっけない前哨戦である。