侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

興禅寺(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒城屋敷 妙國山興禅寺

興禅寺山門脇にある開基梶原景時公碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160029j:image鎌倉幕府の功臣、梶原景時を開基とする興禅寺には景時夫妻の供養塔、梶原氏一族の墓、その子孫で織田信長家臣となった景義(景久)と東条松平忠吉付家老として犬山城主になった小笠原吉次の合葬供養塔がある。

梶原氏一族墓地f:id:shinsaku1234t501:20170621160055j:image梶原景時夫妻供養塔(右が景時、左が景時正室f:id:shinsaku1234t501:20170621160127j:imageなぜ、この地に梶原氏なのか?
景時・嫡男の景季・次男の景高らが駿河清見関の戦いで戦死したのち、景高の子 豊丸(のちの景親)を伴った乳母お隅の方が自分の出身地であるこの地まで連れてきたことにある。こうして、景親が羽黒城に土着したことによって、尾張梶原氏の子孫がこの地で脈々と代を重ね、景義(景久)織田信長(というより主に信忠)の家臣として石山合戦長島一向一揆戦、甲州征伐に従軍した。
しかし、「信長公記」によれば天正10年(1582)の本能寺の変明智軍の攻撃を受けて戦死したとされる。事実のほどは定かではないが、この頃に羽黒城が廃城となったのも、また事実である。

梶原景義・小笠原吉次合葬供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170621160203j:image関ヶ原合戦ののち、戦功著しかった家康の四男、東条松平忠吉が52万石の清洲城主として尾張に移封されると、これに際して家康の命を受けた小笠原吉次が付家老として犬山城に入った。忠吉が病没したのちも、小笠原吉次は下総佐倉・常陸笠間と移封したものの、慶長14年(1609)、家臣が家康に吉次の私曲を直訴したことで改易となり、以後は武蔵都筑郡池辺村に閑居し、元和6年(1620)に没した。

平成になってから梶原景義との合葬供養塔が建立された。おそらく慶長7年(1602)、吉次が犬山城下を整備する一環として興禅寺を羽黒城址である当地に移したことを顕彰する意味からであろう。

興禅寺裏に残る羽黒城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170621160239j:imageまた、興禅寺には山内一豊の母、法秀尼の生誕地碑もある。やはり梶原氏の出身と言われ、岩倉織田家の家臣である山内盛豊に嫁いで長男(早逝)・次男の十郎・三男の一豊・四男の康豊らを生んだ。(完)

法秀尼生誕地碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160310j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142923p:image

嵯峨源氏と箕田館(埼玉県鴻巣市)

埼玉県鴻巣市箕田

氷川八幡社 箕田碑 f:id:shinsaku1234t501:20170620183314j:image嵯峨天皇第十二皇子、源融陽成天皇光孝天皇に仕え、左大臣を歴任した嵯峨源氏融流の初代である。
その次男の源昇も大納言となる。昇の次男の源仕武蔵国司として赴任したのが当地である。(箕田源氏初代)
この仕の嫡男が武蔵権介の源宛(箕田源氏二代目)で、当地で生まれたことから箕田源次と名乗ったが、21歳で早逝した。
宛の嫡男は源綱(箕田源氏三代目)だが、父の早逝により、摂津源氏 多田満仲の娘婿である源敦の養子となった。それに伴い、摂津西成郡渡辺に移住したことから渡辺源次を名乗る。
この渡辺綱は、のち摂津源氏 源頼光に仕えて四天王と称され、大江山鬼退治や一条戻橋で鬼の腕を切り落としたという伝説の存在となる。
その時の太刀が「髭切り」であるのは有名。また、この話から「全国の渡辺(渡部)姓を名乗る人の所には節分の鬼がやって来ない」という伝承が生まれた。

氷川八幡社 説明板f:id:shinsaku1234t501:20170620185105j:imageその子孫の摂津渡辺党は住吉付近で隠然たる勢力を保持し続けた。
綱の曾孫 渡辺久は松浦党として九州で活躍。
徳川家康の家臣で尾張藩付家老の渡辺守綱も子孫である。
なお、箕田二号墳は源仕夫妻の墓との伝承があり、宝持寺には源融から渡辺綱までの嵯峨源氏五代の供養塔が建立された。

箕田二号墳 説明板f:id:shinsaku1234t501:20170620185204j:image箕田二号墳(伝 源仕夫妻墓)f:id:shinsaku1234t501:20170620185245j:imageその発起人として嵯峨源氏顕彰会や全国渡辺会が名を連ねているのは以上の理由からである。(完)

曹傳山美源院宝持寺 嵯峨源氏供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170620185315j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142811p:image

木田余城 後編(茨城県土浦市)

茨城県土浦市木田余

信太範宗墓案内板f:id:shinsaku1234t501:20170226230823j:image信太範宗・正室・嫡男の墓f:id:shinsaku1234t501:20170226230918j:image木田余城址と線路を隔てた反対側の住宅地には信太範宗・正室・嫡男紀八の墓(市指定史跡)がある。範宗が殺害された後、正室と嫡男の紀八は自殺したとある。(完)

周辺の土塁と思われる高低差f:id:shinsaku1234t501:20170226230959j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142703p:image

木田余城 前編(茨城県土浦市)

茨城県土浦市木田余

木田余城跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170226225702j:image土浦城の項にもあるように信太氏の滅亡により土浦城の属城となった木田余城は、一時期、小田城を逐われた小田氏治が入城したこともある。
天正6年(1578)、佐竹義重により落城の上、廃城となる。

江戸時代の土浦城主朽木氏は木田余城址の遺構を残すべく本丸跡に宝積寺を移築するが、明治36年(1903)、汽車の飛び火で焼失したため、移転してしまう。

湿地帯を利用した水城だったというだけあって、現在周囲にはレンコン畑が多いが、本丸を分断するJR常磐線の線路沿いに案内板・地下道の行き止まりに城址碑・宝積寺跡地と思われる墓地には遺構と考えられる堀や土塁らしき遺構が認められる。

城址f:id:shinsaku1234t501:20170227221713j:image宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構f:id:shinsaku1234t501:20170226230213j:image宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構f:id:shinsaku1234t501:20170226230326j:image宝積寺墓地と思われる土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226230435j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142544p:image

土浦城 その5(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城本丸跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170226035125j:image本丸は太鼓櫓門、東櫓、霞門、西櫓などで囲まれ、周囲に内堀が巡らされている。

霞門(現存)f:id:shinsaku1234t501:20170226035240j:image土浦城西櫓脇にある土屋神社(藩主土屋氏の氏神f:id:shinsaku1234t501:20170226035404j:image内堀(北側)f:id:shinsaku1234t501:20170226041030j:image内堀(西側)f:id:shinsaku1234t501:20170226041156j:image慶長7年(1602)5月17日、佐竹義宣水戸城主)は徳川家康より出羽秋田郡への転封を命じられ、同年9月17日、秋田の土崎湊城(秋田県秋田市)に入城した。

その直後の水戸城には徳川家康の五男、武田松平信吉が25万石で入城し、その没後には家康の十男にして当時2歳の長福丸(のちの紀伊徳川頼宣)が20万石で入封する。しかし、長福丸自身は駿府城の家康の元で養育され、水戸城には入らなかった。

こうした経緯から考えるに、土浦城の歴史的意義は、下総古河城主 結城秀康の属城にして、関ヶ原合戦前後の水戸城 佐竹義宣に対する牽制の役目にあったと思われる。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230322101000p:image

土浦城 その3(茨城県土浦市)

茨城県土浦市中央1丁目 亀城公園

土浦城西櫓脇にある信太範宗供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170226015231j:image紀貞頼の家系から出た信太氏と菅谷氏は、ともに小田城の小田氏に仕えた。
その信太氏滅亡には諸説ある。

1.天文23年(1554)、信太範宗は菅谷左衛門尉に誘殺された。

2.「菅谷伝記」では、信太範宗が主君小田氏治と不和になったことで居城の木田余城に籠って出仕しなくなった。氏治は激怒して範宗を討とうとしたが、菅谷政貞に一任。政貞は自らも氏治に無礼を働いて蟄居を命じられる。
こうして氏治に不満を持つ者同士となった政貞は、範宗に接近して謀叛を持ちかける。意気投合した範宗は中根主膳邸にて月見の宴と称して謀叛計画を密議。
その酒席の油断を突いた政貞は範宗を殺害し、すかさず木田余城をも攻略したとする。

3、「土浦記」では政貞を勝貞とし、範宗は勝貞の伯父という設定になっている。二人は不仲で、勝貞が氏治に「範宗が北条氏直に内通している」と讒言したため、土浦城に謀殺したとある。

4、「烟田日記」に「永禄十三年正月、氏治は木田余城主信田某を土浦で殺害し、木田余城に入った」とある。

 土浦城西櫓脇に残る信太範宗供養塔は、上記3及び4の説にもある土浦で殺害したという挿話に基づくものであろう。f:id:shinsaku1234t501:20230322092800p:image