侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

万喜城(千葉県いすみ市)

千葉県いすみ市万木字城山 万木城跡公園

万喜城遠望f:id:shinsaku1234t501:20170310162307j:image山麓にある機岳山海雄寺(左が土岐為頼墓、右が万木土岐家代々供養塔)f:id:shinsaku1234t501:20170310153613j:image万木土岐氏系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説を紹介する。海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年(1492)没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年(1583)没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年となる。親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年(1580)没とある。やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明である。よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

万喜城展望台f:id:shinsaku1234t501:20170310153533j:image余談だが、為頼の嫡子、三代城主の頼春の頃にあたる天正17年(1589)11月、里見軍の大多喜城主、正木時茂が包囲した際、土岐軍の騎馬隊長として20名程度を率いた御子神典膳(のちの小野忠明)が互角に渡り合った。後日、その武勇を聞きつけた一刀流の開祖、伊東一刀斎が万喜城下に出向き、典膳と立ち合う。敗れた典膳は一刀斎に師事し、のち一刀流の後継者として小野派一刀流開祖となり、徳川秀忠の剣術指南役となるのは有名な話である。

千葉県成田市寺台 保目山永興寺墓地 小野忠明f:id:shinsaku1234t501:20170310172136j:image話を戻すが、天正17年(1589)、庁南城の武田豊信・安房の里見義頼、大多喜の正木時茂などを相次いで撃退してきた万喜城も、翌年の小田原征伐の一環として来襲した本多忠勝に攻略され落城となる。三代城主、頼春の消息は不明である。翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

万喜城主郭の土塁f:id:shinsaku1234t501:20170310153708j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014747p:image