木田余城跡説明板土浦城の項にもあるように信太氏の滅亡により土浦城の属城となった木田余城は、一時期、小田城を逐われた小田氏治が入城したこともある。
天正6年(1578)、佐竹義重により落城の上、廃城となる。
江戸時代の土浦城主朽木氏は木田余城址の遺構を残すべく本丸跡に宝積寺を移築するが、明治36年(1903)、汽車の飛び火で焼失したため、移転してしまう。
湿地帯を利用した水城だったというだけあって、現在周囲にはレンコン畑が多いが、本丸を分断するJR常磐線の線路沿いに案内板・地下道の行き止まりに城址碑・宝積寺跡地と思われる墓地には遺構と考えられる堀や土塁らしき遺構が認められる。
城址碑宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構宝積寺墓地と思われる土塁と堀らしき遺構宝積寺墓地と思われる土塁