宇都宮氏の支族で、武蔵に移住した松野助信がこの地に館を構えて太田道灌に仕える。(松野氏館)
松野氏館跡案内板
子の助正は太田氏房の家臣として小田原征伐で浪人となるが、ほどなく徳川家康の旗本になる。
子の資信が寛永2年に200石を賜って旧領であるこの地に陣屋を構えた。(御蔵陣屋)
ということは助正の代はここに居住していたのか、など細かい疑問が残る。
助正が家康から賜った本領安堵状でもあればいいのだが、そのあたりは不明である。
関東には多い、後北条→徳川旗本という典型パターンの一例である。
土塁
十九首塚由来説明板天慶3年(940)2月14日、新皇を称して関東一円に君臨した平将門は、下総猿島の戦いにおいて戦死する。将門を討ち果たした俵藤太こと藤原秀郷は、将門とその家臣の首級を携え上洛の途につく。
そして8月15日、秀郷はこの地において朱雀天皇の勅使一行と合流した。勅使の目的は将門の首実検であり、早速、近くの下俣川で次々と首級を洗い、橋の欄干に掛けて検視をおこなった。勅使は目的を終えた首級を破棄するように伝えたが、秀郷は「仮にも将門はひとかどの武将である」として、十九の首級を川畔に丁重に葬り、将門の念持仏を祀る寺(庵)を建立した。
このエピソードから、首級を洗った下俣川は「血洗川」と伝えられ、埋葬された地は「十九首」と呼ばれるようになる。また、将門の念持仏である薬師如来を祀った寺はのちに「東光寺」と名を変えて現在地に残り、橋の欄干に首級を掛けたことから「懸川(掛川)」という地名になったとする説もある。
下俣川 時を経て、この地で悲劇が起きる。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が戦死し、今川家から独立した松平元康の三河統一が図られるさなかの永禄5年(1562)、井伊谷城主 井伊肥後守直親が松平家への接近を目論んだという噂が流れる。井伊直親は駿府の今川氏真に弁明するために井伊谷を出発して駿河に向かうが、一行がまさにこの地に差しかかった時、氏真の命を受けていた掛川城主 朝比奈泰朝の襲撃を受けて主従ともども惨殺された。
御厨三郎将頼
大葦原四郎将平
大葦原五郎将為
大葦原六郎将武
御厨別当文屋好兼
坂上遂高
武藤五郎貞世
鷲沼庄司光則
鷲沼太郎光武
隅田忠次直文
隅田九郎将貞
長狭七郎保時
大須賀平内時茂
東三郎氏敦
堀江入道周鍳
しかし、将門の首塚といえば、埼玉県幸手市の浄誓寺、東京都千代田区大手町や岐阜県大垣市の御首神社にも由来するがゆえに、この地の首塚は将門ではなく、井伊直親とその家臣を祀るものという言い伝えもあるらしい。また、当初、十九基あったはずの首塚は時代を経ていく中で次第に数が減っていき、中央の将門の首塚とされるものを残すだけとなっていたが、近年、場所を移動して写真の通り整備された。
なるほど疑問は多々ある。まず、将門らの首をこの地で洗ったというのはいかがなものか。本来、戦場における首実検の段階で洗い清めるべきであり、日が経ってから洗ったとしてもこびりついた血痕が綺麗になるものだろうか。ましてや腐敗も始まっているかもしれない。
また、将門は若き頃、京にいた時期があるものの、首実検にあたって顔を知っている存在が勅使一行の中にいるのか。さらに、この地に伝わっている将門の名が「小太郎」というのはおかしい。正しくは「小次郎」のはずである。
一方で、井伊直親が連れていた家臣が十数人程度だった可能性は十分にある。
また、殺された直親の遺体を井伊谷まで持ち帰る南渓瑞聞が、ひっそりと供養塔を建立した可能性も考えられないわけではない。それを平将門の首塚と称することができれば、祟りを怖れるあまり誰も撤去しようとはしないのではないか。
なにせ、井伊家の出身とはいえ、南渓は今川義元の葬儀の導師を務めた名僧であるがゆえ、今川家としてもひっそりと供養塔を建てるぐらいは目をつぶったのではないかなど、この首塚については興趣が尽きない。
もっとも、南渓が持ち帰った直親の遺体は、都田川畔で荼毘に付し、現在の浜松市北区引佐町や細江町にも墓がある。
いずれにせよ、十九首は非業の死を遂げた人物の鎮魂の場であることに違いはないらしい。
一盛長者伝説地碑 石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。
後三年の役終結後、寛治2年(1088)、陸奥守を解任され帰洛途上の義家が再び立ち寄ったところ、前にも増した饗応を受けた。
これによって、義家は長者の財力を危険視して急襲。一旦は抜け穴に逃げ延びた一盛長者だったが、追い詰められると、家宝である黄金の鶏を抱いて那珂川に身を投げたと伝わる。
一盛長者伝説地碑側面の説明文ただ、こんにちのイメージにある資産家という単純なものではなく、おそらく平安時代における長者というのは財力・土地一円の支配力・軍事力を兼ね備えた土豪と考えられる。
また、義家が武士の面目にかけて壮絶なまでに戦った後三年の役は「朝廷の意向に基づかない私戦」と認定され、何らの褒賞もなかった。武士が命をかけて戦う一方で、諸国の長者が利権を得ていくさまが、彼の神経を逆撫でしたとも思える。
土塁のちに義家のもとに諸国の百姓から荘園が寄進されるに及び、寛治5年(1091)、朝廷が義家への荘園寄進を禁じる宣旨を出すことになる。本所・領家として君臨する摂関家や上級公家、預所・庄司として現地の荘園管理を担う下級公家、そのどれにもあてはまらない武士でしかない義家が諸国の名声を勝ち得ると同時に、荘園を所有する貴族化は許されざることだったに違いない。
奇しくも、源氏には長者伝説が付きまとう。
1、平治の乱で美濃大垣まで落ち延びた源義朝・朝長父子を匿った青墓長者
2、義朝の子である範頼は、遠江池田宿の遊女の子とされているが、実は池田一帯の長者の娘であったらしい
3、義朝の子で、奥州平泉を目指す若き義経が三河矢作の兼高長者の世話になり、その娘である浄瑠璃姫と恋仲になるが、義経出立ののち、浄瑠璃姫は川に身を投げた
土塁なお、義家が宿泊した折に、馬の飼料である煮豆の残り汁を発酵させたものが振る舞われたことから、納豆の発祥とも伝わる。
土塁
赤坂見附御門石垣寛永13年(1636)、62の大名家に石垣、58の大名家に堀を担当させる形で飯田橋・四谷・赤坂・溜池の江戸城外堀普請がおこなわれた。
赤坂見附御門石垣寛永9年(1632)、栗山利章の訴えに端を発した筑前黒田騒動で改易を免れた黒田忠之としては、この天下普請は幕府に忠誠を示す絶好の機会となったのかもしれない。
赤坂見附御門石垣こうして黒田家が築いた桝形石垣の上に、加藤正直・小川安則ら普請奉行が赤坂御門を完成させたのは寛永16年(1639)。
赤坂見附周辺の江戸城外堀(弁慶堀)なお、明治5年(1872)に門が撤去された。
また、赤坂見附御門石垣から国道246号沿いに外堀(弁慶堀)に沿って歩き、弁慶橋を渡ってすぐの場所に紀伊和歌山藩邸址碑がある。ここからが紀尾井町となる。
野口館址土塁とにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。
野口館址空堀一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。
野口館址土塁さらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の高麗門が明治9年(1876)に払い下げされたことである。
安積家の門として使用されていた頃の大垣城鉄門長きにわたり加納城の移築門とされていたが、平成21年(2009)にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政4年(1857)の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の本丸表門と判明した。
大垣城鉄門を撤去した現在の虎口石垣左側大垣城鉄門を撤去した現在の虎口石垣右側なお、中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施された。
岐阜県各務原市鵜沼西町1丁目 中山道鵜沼宿町屋館に移築された現在の大垣城鉄門ちなみに門扉や柱部分を鉄で覆った高麗門で現存するのは、名古屋城表二之門・大阪城大手門とこの大垣城鉄門だけである。
歴史談義をする時に必ずつきまとう人物の好きと嫌い。人間、いちいちの事象に好き嫌いの感情があるのは仕方ないが、歴史を語る上でこれほど話の腰を折る面倒なものはない。
「家康が嫌い!」という言葉をよく聞く。それを聞くたびに「バカバカしい」と内心、呆れてしまう。確かに、同時代人の中で家康は嫌われる要素を多く有している。
1、成功者だから嫌い。
2、豊臣家をこれでもか!と滅ぼした。
3、信長や秀吉と比べて陰気で策謀家。
4、信長や秀吉の後ろにいて、努力もせずに天下を簒奪した卑怯者。
5、世界との交易を閉ざして内向的な江戸社会を創った。
6、司馬遼太郎作品の影響。
7、明治時代の徳川否定史観
8、関西以西に多い徳川への対抗心
こんなところだろうか・・・いずれにしても論破できる程度の話である。私はこの手の話になると、よく言う。
「家康が嫌いということは、あなたの歴史は安土桃山時代の次は、いきなり明治ですよね(笑)」
いや、もっと言えば楠木正成がもてはやされ、足利尊氏が逆賊設定になった戦前史観と同じ不気味さを感じるのである。本来は、天皇を奉じた楠木には忠義があり、武士の不平不満を抱え込んだ尊氏には情勢不安や社会構造の現実と矛盾がある、と考察するのが歴史である。
時代転じて、薩長が正義で、幕府側は悪(その逆も然り)というのも学問上においては、もう少し相互の置かれた立場を理解すべきであろう。しかし、私自身の実体験として、会津では今でも幕末が人間関係の分水嶺になっている例もあるので、迂闊なことを言えない部分もある。
好き嫌いが先行すれば、それはもはや歴史ではなく、マンガである。司馬遼太郎は、確かに徳川家康や乃木希典に対する辛辣な印象を著作に色濃く残した。しかし、彼の作品を読むことでその影響を何の疑いもなく受け取るならば、それは司馬遼太郎の史観や著作をさも持論のように語っているにすぎない。
かの武田鉄矢氏は言う。「オレは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のことなら誰よりも知っている」
なるほど彼が得意なのは、史実としての龍馬ではなく、フィクション込みの「竜馬がゆく」の竜馬である。だから、彼は熱が入り過ぎて「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画や「お〜い!竜馬」という漫画を生み出した。
ところが、そんな武田鉄矢氏に司馬遼太郎は言い放った。「いつまでも竜馬、竜馬ではない!」
この言葉の意味するところを理解できたから、武田氏にはその後の役者としての活躍があったのだろう、と私は思う。
私も司馬遼太郎という小説家を敬愛してやまないが、彼の作品についてはさまざまな小説の中の一つの選択肢程度に読むことをオススメする。
俗に司馬史観と呼ばれる彼の史観が悪いのではなく、彼の世界観に引き込まれるあまり、自身で思考することなく、それを歴史そのものと勘違いすることが問題なのである。